内山晶太


「知」はキン消しのように  —しんくわ歌集『しんくわ』について—

しんくわの連作「卓球短歌カットマン」が第三回歌葉新人賞を獲ったのは二〇〇四年、今からひと昔以上前の出来事である。当時はMixiやTwitterといったSNSの代わりに掲示板というものがネット上のコミュニケーション手段として大きな役割を果たしていた。といっても、わたし自身は当時まだパソコンを持ちはじめた時期で使い方もよくわかっておらず、完全に取り残されていた時期だった。それでも、ネット上の総合誌「ちゃばしら」や「題詠マラソン」などをリアルタイムで遠くから眺めていたことなど思い出す。同年代に近い歌人たちが、きらきらとした場にきらきらとした作品を携えて続々と登場する光景を、ただ遠くから眺めていた。二〇〇〇年代前半というのは、そういう意味で個人的にはなんとなくさびしい時期であった。

 

しんくわは、そのきらきらとした場に現れたきらきらとした作者のひとりであり、わたしが目をてのひらで覆いながら、その隙間からうっすらと覗きみていた作者のひとりである。その後「歌葉新人賞」は第五回をもって終了し、掲示板文化はMixiなどのSNSに取って代わられ、しんくわの歌集は出ないまま十数年が経過した。「短歌WAVE」も「短歌ヴァーサス」もすでに発行を停止している。「卓球短歌カットマン」を巻頭に置いた歌集『しんくわ』が、こうして十数年の熟成期間を経て発行されたことは、だから奇跡的なことなのかもしれない。しんくわとはかろうじて同世代であるということ以外に大きな接点はおそらくないし、短歌について目指す方向性も対極に近いところにあるのかもしれない。けれどもしんくわはやはり気になる作者のひとりであり続けているのである。

 

 

身の中にマブチモーターを仕込んでるとしか思えぬ奴の素振りだ

 

 

巻頭の連作「卓球短歌カットマン」の一首。短歌の語彙として「マブチモーター」がこういうかたちで出てくる例は極めて稀であろう。単なるモーターではなく「マブチモーター」とメーカー名込み。「ミニ四駆」などの流行(わたしはこの流行にも乗れなかったが)を含めての語彙選択がされているはずである。この連作には、どことなく少年誌ギャグ漫画的な匂いが漂っているが、この一首にはそれが濃厚に感じられる。思えば、寺山修司は少年性によって、平井弘は幼年性によって私性を拡張したけれども、しんくわは「卓球短歌カットマン」において、少年性や幼年性をより細かく分類した先にある「少年誌ギャグ漫画主人公性」へとはからずも足を踏み入れているようにも思われる。

 

 

ナムコワンダーランドへようこそと呟いて整形外科の扉を開ける

医師のターンドロー「電気を膝に通しましょう」「特殊ダメージ追加」と俺

 

 

上記二首は、「吉凶」という連作のなかの作品。この連作は、元旦にバイクで転倒し、病院に通い、その数日後にはバイクを若い少年に盗まれるという踏んだり蹴ったりの出来事が短歌と文章とで描かれている。整形外科をナムコワンダーランドと思い込むことで、扉を開ける勇気を奮い起こしている一首目。医師とのやりとりもワンダーランド内の出来事である。ゲームのことにはまったく詳しくないが、二首目などは「なりきる力」で針が振り切れている。人生の軸が現実社会に置かれているのではなく、妄想やゲームの側に置かれているようにも見え、かといって、そこによくある現実と妄想との狭間の煩悶はなく、むしろすっきりと振り切れている。

 

 

茶器を僕に ドラえもん、茶器をぼくに。いや、未来の道具じゃなくて、茶器をぼくに

 

 

「関ヶ原」という連作より引いた。一読して笑い、三読四読して怖くなる。武将たちの時代とドラえもんのいる時代が主体によって引き寄せられ、同平面に併存させられている。ドラえもんはそのポケットから何かの不都合を「解決」するための道具を出してくれるネコ型ロボットだが、主体は「茶器」という自分の私利私欲を満たすためだけのものを執拗に要求している。ドラえもんという存在にぐいっと圧力がかけられ、ドラえもんはすでに変容している。このあと、このドラえもんは圧力に負けてたぶんポケットから茶器を取り出したことだろう。にもかかわらず主体の口調自体はソフトなのである。ソフトなのにワンマン、というほぼありえない組み合わせが成立している点が、おそらく怖さの源なのだ。

 

 

前髪を切る……千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで藤波辰巳

裏切ってそれからまたもや裏切って最後は愛されちまう上田馬之助

狂犬ディック・マードックのタイツが脱げて尻が出ちゃうあの真夏日のやるせなさよ

ドブネズミのように美しくなりたい 金網から飛び降りたブル中野のような美しさがあるから

 

 

歌集中には、プロレスに関する作品も数多い。一首目から四首目まで、プロレスにある程度詳しくないとよく意味が分からない歌かもしれない。ので、若干の解説を加える。一首目。長らくアントニオ猪木が牽引してきた新日本プロレスで、次世代のエースだった藤波辰巳は試合後の控室で猪木に世代交代を直訴した(飛龍革命)。直訴しつつ、その本気をアピールするために藤波がとった行動が、控室の救急箱をあさってハサミを取り出しアントニオ猪木の前で前髪を切る、というものだった。藤波の故障などもあり飛龍革命は結果としてパッとしないまま終わってしまった感があるが、この一首では「君が代」の歌詞が歌い切られていて、飛龍革命成功のまぼろしが見える。二首目の上田馬之助は有名な悪役レスラー。日本プロレス幹部にアントニオ猪木のクーデター計画を密告し、猪木を団体から追放したと言われている。また、全日本プロレスを契約途中で退団しフリーランスになるなど、表面的には裏切り者というレッテルが貼られている。晩年は交通事故の後遺症に苦しみながらも講演活動を行い、いい人だというエピソードが発掘されたりと、裏切り者のレッテルは剝がれていった。

 

ちょっと長くなってきたので、簡潔に三首目。ディック・マードックは、場外でもみ合った後、リング内に戻ろうとするときに相手選手(特に藤波辰巳)にそのトランクスを掴まれてトランクスがずり下がるという一連のお約束があった。そのことを歌っているのだろう。四首目。これはアジャ・コングとの金網デスマッチ。金網の囲いに上って、その最上段からブル中野がアジャ・コングにギロチンドロップを見舞った。若干斜めから見ている節もあるが、そうした凄惨なものの持つ美しさを、ドブネズミに重ねているはずである。

 

長々と解説に文章を費やしてしまったが、ここで注意したいのは一見奔放に見えるしんくわ作品が、実にトリビアルな事実を、その作品の根拠としているということだ。歌集『しんくわ』はこうした側面から見れば、奔放さのコーティングをまとった知の歌集なのである。

 

また、四首目の上の句「どぶねずみのように美しくなりたい」はブルーハーツの「リンダリンダ」冒頭の歌詞「ドブネズミみたいに美しくなりたい」からの引用でもあろう。『しんくわ』にはこうした引用、パロディも随所に散りばめられている。

 

 

日本脱臼させたしブシロード木谷社長も、彼の配下の親日プロレスラーも

心にもないことばかり言いたくて何も言えなくて夏みかん

厭戦だ厭戦だと叫び流れゆく貴方は野坂昭如になるべきだ

「金環食見に来た」

三時間高速飛ばして鳴門へ

人の

車で

初夏の池田動物園の象のうんこよ聞いてくれ、ねむい! あと津山線はいつまでディーゼルカーなの?

 

塚本邦雄もJ-WALKも斎藤史も今橋愛も穂村弘も相対化され、並列に、ごちゃまぜになって現れてくる。すべては「しんくわ」というひとりの主体によって消化され、知識化されたものである。知識となったものたちは、あたかもキン消し(キン肉マン消しゴム)のようにしんくわの手によって動かされる。その意味で、ドラえもんの歌に感じたワンマンさは、やはりここでも十分に発揮されていると言える。手に入れた「知」を自由自在に操り歌をつくりだすさまは、暴力的かつ天真爛漫である。ここは賛否が分かれる部分かもしれないが、しんくわ作品の持つドライブ感の大きな要因がこのあたりに潜んでいるようにも感じられる。

 

『しんくわ』には、短歌はもちろん俳句や文章や「偽カード集」まで入っていて一筋縄ではいかない書籍である。今回のコラムのタイトルは、便宜上、「歌集」としているけれども、実際のところこの一冊は短歌というジャンルを超えた、たった一人のための「しんくわ」というジャンルの書籍なのかもしれない。