夢の約束   ~岡部由紀子のうたによせて

  今年の筑紫歌壇賞は、岡部由紀子歌集『父の独楽』(不識書院)に決定した。筑紫歌壇賞は六十歳以上の第一歌集を対象とした賞で、国際科学技術・文化振興会が主催し、太宰府市・太宰府市教育委員会・本阿弥書店が後援する。選考委員は、伊藤一彦、小島ゆかり、山埜井喜美枝の各氏である。今年で十二回目を迎えるが、今回は選考委員全員一致で『父の独楽』に決定したという。受賞歌集の作品(抄出)や選考委員の選評等は、短歌総合誌「歌壇」(2015年8月号)に発表されている。

  岡部由紀子さんの夫は故・岡部桂一郎であり、戦後、山下陸奥の結社「一路」でふたりは出会う。やがて、岡部桂一郎は「一路」を去り、山崎方代、浜田到、笠原伸夫らと同人誌「工人」を創刊。「工人」廃刊後も「泥」の発刊に加わるなど複数の同人誌に拠ったが、その後はどこの結社にも属さず、最後まで無所属を通した孤高の歌人として知られる。1994年に「冬」で短歌研究賞を、2003年に歌集『一点鐘』で迢空賞、詩歌文学館賞を受賞、2008年には歌集『竹叢』で読売文学賞を受賞した。2012年11月没、享年97。

  岡部由紀子さんは、今年米寿を迎えられた。岡部桂一郎同様、その後どこの結社にも属さず、生前の桂一郎を最後まで支えつづけた女性である。

 

   灯の下にかさなりあはき角砂糖 とほくどこかで雪がふつてる

   天井のしらみきたりて一本の紐は救ひのごとく垂れたり

   台所の角に吊られし蠅叩き お前はなんと淋しい名前

   黙つたまま抱いてゐたれば暖かき大きなヤカン植村玲子

   小雀が夕風となる庭石に宝石のやうな糞置いてゆく

 

  電灯の下の硝子瓶のなかで角砂糖が重なり合っている。それは熱い紅茶にすっと溶けてしまうような淡い方形である。その角砂糖の白から「とほくどこかで雪がふつてる」という連想が呼びさまされる。「とほく」は、距離的な遠さとも時間的な遠さともとれるが、わたしにははるか過ぎ去った歳月のどこかで降りしきる雪を思わせる。それは、岡部由紀子の記憶の川に降る雪である。小さな白い角砂糖がそんな遠いむかしを呼び寄せる。静かな時間が流れている。

  二首目は、夜明けにあたりが白みはじめた天井から一本の紐が垂れている。それが「救ひのごとく」見えるのはなぜか。芥川の「鼻」ではないが、この紐は天から下ろされた救済の糸なのだろうか。それはただ電気を点灯させるための紐なのかも知れないが、深い睡りからもどった目のおぼろに、一本の紐はそうした生活の機能をこえた存在として垂れている。あたかもそれは、現世から解放される救いとみえたのではないか。

  平易な言葉がそのまま詩になるのが、岡部由紀子の世界である。用途そのままの名をもつ生活品は日常に多いが、「蠅叩き」とはなんと淋しい名前であるか。あの単純な形状はただそれだけのために生まれて、あの台所の隅に吊られているのだ。四首目では、「大きなヤカン」が「植村玲子」という一人の女性と等価な存在として描かれる。作者にとってはいずれも温かくて大きな存在なのだろう。「黙つたまま抱いてゐたれば」という沈黙のふかさが、語られることのない多くを暗示する。この「大きなヤカン」は植村玲子の体温そのものなのだ。五首目の小雀が残していった「宝石のやうな糞」もそうだろう。生あるものへの慈しみがここにはある。およそ生活の現場ではさして価値をもたない多くのものに、岡部由紀子の目はかがやく。それは、日々の生活を生きる〈私〉と同質な存在に向けたまなざしの深さである。

  歌や詩はその人の体内から生まれでる吐息のようなものだと思う。体内ふかくに眠っている温かな気体のような、ものの存在をまるごと包み込むような目の深さなのだと思う。岡部由紀子の歌集『父の独楽』は、わたしにそうした詩のたたずまいを教えてくれる。それは、過去の厖大な詩歌の歴史のうえに花ひらくものでも、高踏的な技巧や知の蓄積が織りなす芸術品でもない。生活のなかにひっそりとある、体熱のような眼ざしの内がわにじっと蹲った温かいなにかである。

 

   まなうらに菜の花畑(なだ)れつつ近江湖北を眠りゆくなり

   よろこびの止めどなきごと紙袋 風にあふられ坂ころげゆく

   大きな蓮あたまにかぶり笑つてゐたあの夏の日の誰もゐない

   蛇の血のときに流れるひとさびし或る夜ふいに足からめくる

 

  一首目は、「望郷」という一連にある作品。列車は桂一郎の郷里(神戸市)をすぎて、近江湖北を通過しているのだろう。「まなうらに」とあるから、一望する菜の花畑は追憶のなかの景色ととりたい。また、二首目の「紙袋」が「よろこびの止めどなきごと」くに坂をころげゆくさまは、岡部由紀子の目の特質を表しているように思う。こうした作品は他にも多く抽くことができるが、まるで無機質なものにいのちを吹きこむような、「紙袋」がみずからの意思をもって転がるような、どこか楽しげな光景でさえある。桂一郎との人生の充溢は決して平坦ではなかったと思われるが、岡部由紀子の詩の特性は本来こうした目の温かさにあるように思うのだ。

  三首目は、「釧路」と題する一連にある。掲出歌の前に〈むらさきの花しのぶ抱き史さんと頬よせ撮られき釧路湿原〉があることから、岡部夫妻が齋藤史と釧路行を共にしたときと知れる。おそらく、齋藤史とともに釧路市の地元に招聘された折の作品だろう。由紀子自身が「釧路の人たちが呼んでくれたんですよね。トラックに横断幕で『齋藤史先生・岡部桂一郎先生来る』ってあって。なにかドサ回りの一座みたいで」と回想している(「特集・岡部桂一郎の到達点」/角川書店「短歌」2003年11月号)。大きな蓮をあたまに被って笑っていたのは齋藤史だろう。岡部桂一郎年譜(『岡部桂一郎全歌集』/青磁社)によれば、岡部夫妻と齋藤史は二度ほど(1982年、1988年)北海道を訪れている。一度目は詩人・高橋睦郎たちと、そして二度目は桂一郎の朋友寺田由紀夫たちと。しかし、高橋睦郎や寺田由紀夫は別としても、「あの夏の日」に笑っていた人たちも、今では多くが鬼籍に入って誰も残っていない。あのときの和やかな笑顔だけが、由紀子の記憶のなかに鮮明である。

  四首目に流れるエロスはどうだろう。夜ふいに足をからめてくるのは、〈私〉とは異質な血のながれる存在である。〈私〉はその血の冷たさを「さびし」と受け入れるのだ。異類をまるごと受容する愛のかたちがここにはある。「蛇の血のときに流れるひと」とは、むろん岡部桂一郎である。後年、岡部由紀子は「…性格的に暗いですもの。ほんとうに暗い男。ほんとうに蛇の血、人間のあったかい血じゃない、蛇の血かなと思うくらい冷たいところもあるし、冷たいっていうのは、家族に対してよ」と回想している(特集インタビュー・岡部桂一郎/「横浜歌人会報」100号)。ひとりの人間の内部には、温かさも冷たさも同居している。岡部由紀子にとって、愛するとはそんな冷たさも含めてまるごと抱きしめることなのだろう。

                  *

  岡部由紀子は、1949年に桂一郎と結婚した。当時二十二歳。そこから姑との同居生活が始まる。若いころから短歌に親しみ、しかし桂一郎と出逢って今日に至るまで一冊の歌集ももたず、ただただ夫を支えて歌を詠み続けた。結核を再発した桂一郎にむける姑の愛は、そのぶん嫁へのさまざまな差別となってあらわれたようだ。食事のちがいはもちろん、十分に陽ざしを吸った暖かな布団は桂一郎のものであり、勤めをもっていた由紀子には冷たい布団があてがわれた(前掲/「横浜歌人会報」100号)。

  〈セックスは胸に悪しと汝が病めばたちまち姑に家を出さるる〉と津田沼に別居をさせられたのも、強いられた悲しみのひとつであったろう。〈つぎしたる蚊帳むし暑く寝る夜のひとりの吾に触れ給ふなかれ〉とは、独り寝の若妻の肩に風のはこぶ青蚊帳がふれるのだ。〈別れ住む夏の夜長く重ねきて堪へざりしとき人を憎めり〉  ときにそうした負の感情も抱きながら、山崎方代や金子一秋、竹花忍や海津耿たち多くの来訪者の面倒を懇切にみる人生に明け暮れた。そして、いつも寡黙な岡部桂一郎を愛しつづけた。

  桂一郎の晩年、岡部由紀子は十三年にわたる自宅介護ののち、意に反して桂一郎を施設に入所させざるを得なくなる。その入所期間中に、まるで木の葉が落ちるように桂一郎の脳細胞は落ちていった、と由紀子さんは述懐する。それでも、紙と鉛筆をもたせるとそこに短歌を書いたという(前掲/「横浜歌人会報」100号)。

  歌集の後半にはこんな作品がある。

 

   風にとぶ竹葉のやうにいつの日か母を忘れてあなたを忘れて

   餅くひてこの昼のこと忘れをり呆けゆくことの何かたのしく

   こんなにもやさしい人をなぜ叱る 十年ながし長し十年

   かならず逢ひにくるから雨の日も逢ひにくるから許してください 

 

  歳月にふく風は、忘却という竹葉を戦がせる。その風にとばされる一枚の葉のように、あんなに愛していた母の、あなたの記憶がうすれてゆく。いつかはそうした日を迎えるのではないかと一首目はいうのだ。

  〈病みながき日の口中になじみたる入歯をあらふ三月の水〉と桂一郎を歌い、〈目やに拭きふぐりを拭きて九十や 二人し居ればこの世天国〉と歌う。このとき、桂一郎はすでに九十歳を超えている。「こんなにもやさしい人」をなぜ〈私〉は叱らなければならないのか。この自責の念が、十三年におよぶ妻の介護の実態の重さである。

  四首目の「かならず逢ひにくるから……」の前には〈「俺を置いてゆくのか」背後より浴びせられたり振り向かずゆく〉があり、施設に委ねざるを得なかった妻としての断腸の思いが伝わる。その後も、由紀子さんは日夜桂一郎を見舞っており、夫の体調についてはどの介護士よりも詳しかったという。

 

   霜月の死は近からむ朝昼夜 気狂れるごとく走りてゐたり

   風速二十メートル ネムの葉のちぎれとぶ見ゆ 抱いてください

   ありがたう なにも言ふことあらざればまだ暖かきこの手を握る

   もういいよ 苦しみもなき今生のあなたの瞼に口づけをする

 

  桂一郎が由紀子さんのもとを旅立ったのは、11月28日であった。夫婦にはさまざまな歳月の表情があるが、由紀子さんとは情の濃いひとであるとつくづく思う。「ありがたう」という永訣のひと言に尽くせぬ思いがこもる。死がすべてを解放してくれるものであるなら、残されたものはそっと瞼に口づけするしかない。今生の別れである。

 

   あなたの骨 わたしの骨とまぜ合はせ石蓋を閉づ夢の約束

   とろろ汁好きでしたねえ霜の夜の膳に並べる一椀の汁

   アジアンタムわづかに葉かげゆらしつつ一日喋らぬ夕ぐれがくる

 

  ふたりの遺骨を骨壺のなかで混ぜ合わせる  これは夢のなかの約束ではない。ある日、桂一郎と〈ふたりの夢〉として交わした約束である。その墓地は、千葉県松戸市にある。由紀子さんがそう語りかけたとき、桂一郎はしばし涙ぐんだという(前掲/「横浜歌人会報」100号)。

  「とろろ汁好きでしたねえ」と語りかけるとき、そこに桂一郎はいない。やがて、一日だれとも喋らない夕暮れがくる。そんな夕暮れが幾たびおとずれたことだろう。だれとも喋らないことが淋しいのではない。居るべき一人がそこにいないことが淋しいのだ。 

  「あとがきに代えて」として、本集掉尾に岡部由紀子は短い詩を寄せている。全文を引く。

 

   むかし、貧しいたつきの中から、

   母が金をくれた。

   「本の足しにしなさい」

   しかし私は、歌集を出せなかった。

 

   「おふくろが白い物を黒い、と言ったら、

   それは黒いのだ。わかったか」

   桂一郎は私にそう言った。

   二十六歳で夫を亡くし、一人手で自分を

   育ててくれた母への、それは精一杯の言

   葉であった  と、今にして思う。

   私は傷つき、憎しみ、しかし深く、

   彼の歌を愛した。

 

   歌はやはり、

   悲しい玩具である。

   初めで、終わりのこの歌集を読み返し、

   終わりに近く、自分の歌に涙が出た。

   阿呆なことだが、

   私の人生とはそんなものだった。

   この一冊を土深く、

   あなたのそばに埋めたいと思う。

 

    二〇一四年一月九日

                                  岡部由紀子

 

  日付も署名も含めて引く。省略することは失礼だと思ったからだ。これは「あとがき」である以上に詩そのものである。この短い一篇を引き写しながら、わたしはぼろぼろ泣いた。泣いている自分を恥ずかしいとは思わなかった。なみだですぐにパソコンの画面が見えなくなるので、そのつど手の甲で拭いながらキーボードを打ちつづけた。

  由紀子さん、現代短歌にはこの一冊があれば十分だとわたしは思います。齋藤史や山中智恵子や葛原妙子や馬場あき子や、あるいは塚本邦雄や岡井隆や春日井建や寺山修司の居列ぶあの立派な峰の、その反対側にたった一冊、この『父の独楽』を立てればいい。それは孤高の歌人岡部桂一郎を支え続けたひとりの女性のささやかな人生の詩である。そして、そのささやかな場所こそが、まちがいなくもうひとつの温かな〈詩〉の峰であったことをわたしに教えてくれる。

                  *

  初めで、終わりのこの歌集を……とあとがきに代えて由紀子さんは書かれる。そう、これが最初で最後の歌集なのだ、とわたしも思う。それでも、異才・岡部桂一郎を彼岸に送ったあとの、その後の岡部由紀子の歳月を読みたいとわたしは思うのだ。それが、歌であっても詩であってもいい。その後の由紀子さんの、瀟洒なうすい一冊を読みたいと思う。

 

  怠惰なわたしは『父の独楽』を入手しそこねた。岡部由紀子さんが筑紫歌壇賞を受賞されたことを「歌壇」(2015年8月号)誌上で知ったときは、すでにこの歌集は入手困難な状態であった。今年9月18日、短歌研究社各賞の祝賀パーティ会場でお会いした版元・不識書院の中靜勇さんにその話をしたとき、二冊だけ手元に残っているからと、早々にその貴重な一冊を贈ってくださった。そのご厚意でこの一文を書くことができた。感謝に堪えない。

  また、本稿を書くにあたって、横浜歌人会の「岡部桂一郎インタビュー特集」(「横浜歌人会報」100号)には大いに助けられた。2010年10月6日に訪問し、角宮悦子さんを聞き手に同行の高橋みずほさんが構成一切を担当した貴重な資料である。あわせて、感謝申し上げる。