人間らしさということ~小池光歌集『思川の岸辺』をめぐって~

2016年の新年を迎える。

大晦日の夜に鎌倉は材木座の海岸に立つと、伊豆大島の灯台が13秒間隔で光る、と田村隆一が詩集『新年の手紙』に書いていた。13秒間隔の光は魅力的だな。と思っていたら、実は13秒ではない、と後に田村自身が書いたのを何かで読んだ。えっと思ったけれど、それはそれで素敵な嘘だ。

『新年の手紙』が出たのが、1973年だからもう40年以上経つ。詩人が暗い世界に一脈の「肯定の炎」(W・H・オーデン)を希求してから、それだけ経ったのだ。

もちろん、世界は今もって、おそらくは40年前よりも暗い。2015年11月13日に、パリはテロで壊れた。シリアにはおびただしい爆弾が降っており、その空の下で殺し合いが絶えない。それが特別なことではなく思われてきた。どこかに一脈の光が見たい。

 

「うた新聞」第45号(2015年12月10日)に、大森静佳が小池光歌集『思川の岸辺』について書いている。短い文章だが、一文一文が含蓄に富む。

小池光の最新歌集『思川の岸辺』は、短歌における「人間」を考える上できわめて示唆の豊かな歌集と言えるだろう。(略)

何気ない歌がなぜかしみじみと読者の心を揺さぶる歌集である。(略)茂吉も小池も家族の生老病死のかなしみ、また人間が背負う侘しさや情けなさまで包み隠さず歌にした。

うなずける評言である。『思川の岸辺』は、妻の死を詠んだ挽歌集。読んでいて、たしかに心が揺さぶられた。そして、人間らしい歌だと思った。大森が「人間が背負う侘しさや情けなさまで包み隠さず歌にした」と評した歌の数々を、自分は「人間らしい」と感じたのだ。

 

掃除機のコードひつぱり出す途中にてむなしくなりぬああ生きて何せむ

正座して鏡のまへに居りしきみ声をかければふりむくものを

十五歳夏のはじめの出会ひにて四十八年のちのわかれぞ

着物だつて持つてゐたのに着ることのなかりしきみの一生(ひとよ)をおもう

われがことちよつと書いてある新聞を遺影のまへにたたみて置くも

 

この歌集の書評を他のところに書いた。その折に引いた歌をあらためて並べた。

これらの歌を格別にいいと思わない、他にもっといい歌があるだろうにと言う声が聞こえてきそうだ。「ああ生きて何せむ」なんて大時代的だし、「沈む夕陽をあるとき見つむ」はステレオタイプでしょう、と。いない人にむかって、そこに居たとしたらとか着物が着られたら、というのは感傷的だ、とか。たしかにこれらの歌の表層に流れるメロディーラインは歌謡曲に似ているかもしれない。かつて富岡多恵子が歌謡曲の特徴を「情緒の枠型」と言っていたのを思い出す。でも、小池のは違うのじゃないか。枠型ではないだろう。一つ一つのディテールには、枠にはまった既存の感情にはない深みがあると思う。

たとえば1首目。掃除をして清潔を保つのは、ホームレスの人たちが逆説的に示すように、社会的な行為である。そのことが無意味に思われた一瞬とは、死を思ったことに等しい。「生きて何せむ」には内実がある。そんなふうにこだわって読みたい。亡くなった妻は、「正座」する人であり、「十五歳の夏の眩しさとさわやかさ」を失うことがない人なのである。茶飲み話に「ちよこつと」そうにも、もはや話す相手がいない。新聞を畳んで置くのは、普通の行為だが、その行為をわざわざ歌に拾い上げたのは、何あろう遺影に対する礼節からである。

小林秀雄が、子どもを亡くした親は、子どもの死に顔を思い出して泣くのではない、元気に笑っている顔を思い出して泣くのだ、と書いていた。奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、これらの歌には、そのような人間の自然で健やかな感情が紛れもない。鎌倉にある臨済宗円覚寺の管長であった今北(いまきた)(こう)(ぜん)は、知り合いの老婆が亡くなった時、大声をあげて泣いた。すると、他の僧が老師は大悟徹底したはずなのに、あんなにあられもなく泣くとはみっともないと非難した。それを仄聞した洪川は、「悲しい時に何のこだわりもなく泣けるようでなければ、何のための修行か」という趣旨のことを言ったという。ふつうに生きる人間の自然で健やかな感情が、包み隠さず詠むまれている歌を、自分は人間らしい歌だと思うのである。

挽歌のモチーフは、不在感であり、空虚感である。その感情の総量が、すなわち喪ったものに対するいとしさの感情の総量である。小林に倣っていえば、わたしたちは喪失感に胸を打たれるのではなく、いとしさの深さに心を揺さぶられるのだ。

小池の歌が、情けないことも包み隠さず詠むことについては、すでに山田富士郎が書いている。

 

2002年12月3日

同じ日の訃報にみたりイバン・イリイチ、マル・ウォルドンわが青春よ

(「稀代の語り手」2009年「短歌」8月号)

 

山田はこの歌について次のように言う。

産業社会批判で知られる思想家のイリイチ、ビリー・ホリデーの伴奏者としても有名なジャズピアニストのウォルドン。二人ともたしかにある時代の雰囲気を濃厚にまとっているが、ここではそれ以上に、「わが青春よ」と一首を収めたことの方に目がゆく。ほとんど泥臭く、今風に言えばべたな印象を与える。一首目の歌(筆者注:ポプラ焚く榾火に屈むわがまへをすばやく過ぎて青春といふ)のスマートでレトリカルなのとは好対照だが、この泥臭さは意識的に選ばれたもので、良い意味での開き直りを感じる。

 

かゆいとこありまひぇんか、といひながら猫の頭を撫でてをりたり

 

こういう歌も開き直らなくてはとても公表できたものではない。ある時期から小池光は猫に取り付かれたらしく、歌の中に猫が跳梁するようになった。痴愚といえば痴愚だが、猫馬鹿の自分を摘出し造形する能力はなかなかのもの。「ありまひぇんか」には参った。

山田は、「意識的な泥臭さ」「開き直り」という言葉を用いながら、小池がみずからの無様をあらわすこともいとわないことを述べている。

歌集に戻ろう。次の歌は、不在感といとしさの関係をそのままあらわしていると思う。

 

砂糖パンほんとおいしいと川のほとり草の上こゑを揃へて言ひき

母親となりたる志野をみるときに志野かはゆしとせつにおもへり

保育園バスより降りてくる志野を出迎へたるはきのふのごとし

 

いずれの歌も嫁いで家を出た娘の思い出をうたって、とりたてて目覚ましいところのある歌ではない。けれど、これらの歌が一群の挽歌のなかにあることで、初老の男は、妻の不在感のみならず、いつでもどこでも不在感を胸裏にただよわせていることが思われてくる。『思川の岸辺』にうたわれたこの不在感と空虚感は、いとしい人の死が生きている者に何をのこすのかを明らかにしている。

 

小池光の詩人気質ということを、その作品を読んでいるとしばしば感じる。見えているのに、見てはいなかった世界を、見えるようにする人だ、と。

人間はもののはづみにドロップの缶の()(あな)をのぞくさへする(『時のめぐりに』)

 

ある座談会(「短歌」2009年8月号「小池光に聞く、その歌の裏側」)で、小池はこう述べる。

「これは割と好きな歌。人間とは、何々であると歌う時には、何々が勝負となってくる。絶対に誰も思わない、誰も分節しない言葉で、何々のところを探しているわけ。すると何かのはずみに、サクマドロップって不思議なものがあるのを思い出す。あれは戦前から同じ形の缶に入っていて、ずっと残っている。なぜそうかを考えると、あれは出穴が全てだ、と。」(略)

「すると人間というのは、ドロップの缶の穴をのぞく生き物だって。これはちょっと新しいんじゃないか。」

小池の歌には、「~とは」をモチーフにした歌が少なくない。わたしたちが「AはBである」と思い込んでいることについて、「AはPである」とうたって、いままでとは違う世界を現出させる。同じ座談会で、そのことに触れて小池はこう言う。

「全ての人は世界を分節して生きている。その分節の仕方を、わずか一パーセントずらした時に、今までの世界とは違うものが現前する。それが詩を書く意味でないかしら。そのために書くわけであって、言葉で世界を追認してるわけじゃない。」

『思川の岸辺』でも、その方法は変わらない。先に述べた歌のディテールへのこだわりは、そこに由来する。ただ、「~とは」のモチーフが、「妻を亡くした自分とは」ということになった。それは、実人生上の私的な現実に自分が向かい合うことに他ならない。フォークランド紛争や佐野朋子に向かい合うのとは、違う。極私的な素材をうたうという一方で、多くの人たちがモチーフとするであろうこと、すなわち夥しい既存の感情の累積がある素材について、うたったのだとも言える。

その結果として私たちは、初老の男の詠嘆を通じて、人間らしさということの現在的な価値に気づくことになった。

 

パレスチナ文学の研究者である岡真理は、2004年4月のイスラエル軍によるパレスチナ大侵攻について述べるくだりで、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の例を引き、包囲されたサラエヴォで「ゴドーを待ちながら」が上演された意義について語る。パレスチナにしろサラエヴォにしろ、そこでは常に市民は殺される恐怖に直面していた。そのような非人間的な状況にあって、人間には文学が必要なのだと岡は言う。人間らしさを回復するために。(『棗椰子の木陰で』)

この岡の言説は、今という時代に一脈の光を投げかけていないか。どんなに非人間的な状況にあっても、人間としての尊厳、生きる喜びを失わないために文学はある、と。日々爆撃をくらうことはなくても、多くの人たちが、貧困に、偏見に、テロの恐怖に、理不尽な規制に、真綿で首を絞められるかのような苦しみの中にいると思われる。穂村宏だったと思うが、空気が希薄だというのは、正鵠を射ている。そのような現実でも事情は同じだろう。人間らしい作品が求められているのではないか。そんなことをあてもなく思っていた時に、『思川の岸辺』を読んだのだった。

いとしい人を失うということ。のこされた者がそののちの時間を生きること。その感情を、歌を通じて受け止めたとき、わたしたちは、いのちを奪うことが、どれほどに苛酷なことかを思い知る。それはとりもなおさず、いとしさの感情が人間にとってどれほどに貴重なのかを思い知ることに他ならない。

いとしい人の死を、無様なことも情けないことも包み隠さずあらわしたこの歌集を読んで、人間らしさがこの世界になくてはならない貴重な資源であることを思ったのである。