柳 宣宏


世界観を詠む、読む ~渡辺松男歌集『雨(ふ)る』をめぐって~

渡辺松男の歌を高く評価する歌人は、少なくない。

 

かたつむりってちっともさみしくないみたい昨日より一メートル上の葉を這う 『けやき少年』

 

この歌を引いて、三枝浩樹は次のように言う。

「急がないかたつむり時間と急ぐにんげん時間。急ぐ生き方って本当にいいの? かたつむりのような生き方は本当に駄目? そんな声が届く」(「短歌往来」2013・10月号「歌のアウフヘーベン」)

 

ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある 『泡宇宙の蛙』

 

この歌を引いて、山田富士郎は次のように言う。

「人間の生を特別視しない世界観」が窺える、と。そして、他の箇所で、こうも言う。「渡辺松男の歌は、固着したわれわれの世界観を揺さぶり、価値観に穴をあける。解放感を与えてくれる。」(同、「エスノセントリズムを超えて」)

三枝の言うことにも、山田の言うことにも深く共感する。渡辺の歌を語る時に、私たちは「生き方」や「世界観」に触れざるを得なくなる。ひとはいかに生きるのか。べたな言い方だろうが、なんだろうが、渡辺の歌に魅かれるのは、それがうたわれているからだ。

新しい歌集が出た。早速に読んだ。

 

癌と知りちひさくちさくきみ坐すればきみより大きな蜻蛉が窓に

 

まだ十分に若い妻は、癌と知って落胆が甚だしい。それは、作者とて同じだ。それにしても、人はどんなに小さくなっても、蜻蛉より小さくなることはない。作者ならではの幻想。蜻蛉が生の象徴なのは、見やすい道理である。斎藤茂吉の「死に給ふ母」の歌を思い出す。喉の赤い玄鳥が梁にいて、衰えゆく母の生命と対比されていた。家空間の上と下。生と死。劇的な対比は、茂吉という人間の視覚を通して、ひとつの統合された場面を構成していた。一方、この渡辺の歌は、どうだろう。「ちひさくちさく」という繰り返し。「きみ」の繰り返し。「きみ」より大きな蜻蛉。一首は、統合された印象よりも、不測の事態に男がおろおろと行ったり来たりするような印象を受ける。歌は、遠近法的に整った構成をしているとは言い難い。その歌の姿は、幼稚で、無様であるとさえ言える。だが、その歌は、わたくしに、妻が癌であるとわかった時に人はこのようにしか生きられないのだ、と告げる。茂吉の拓いた方法は、現代の短歌に大きく寄与したことは間違いない。しかし、渡辺は、それが制度として作歌を縛ることを、拒否するかのようだ。歌人としての渡辺松男という人格の根源には、生きているとはどういうことかという問いがある、と思う。それと密接不可分なこととして、制度としての表現から自由でありたいという希求があるのだろう、と思う。掲歌の措辞が幼く見えるのも、端正な姿をしていないのも、それが理由だ。

 

などかくも君なき真夜は急激に家ぢゆうの灯をともしてまはる

 

「君」の非在による喪失感、空虚感を、身体の内側にとどめておくことができない。3句目に「急激に」を挟むことは、静かな流れに岩を叩きこむようなものであり、一首の安定を欠く。けれども、ここにそれ以外のどんな言葉をいれても、制度に取り込まれてしまう。歌人の感覚が、そう知らせたのだろう。「急激」としか言いようのない衝迫が、身を襲う。理性にしたがう言葉の統御ではあらわせない狂気が、この歌にはある。日常からのその飛距離こそが、妻への愛情の深度に他ならない。

 

もう君は死んだのだから吾はねむる近いところが火事でありても

 

下句の「近いところが火事でありても」というフレーズが、印象に残る。延焼の末に焼け死んだっていいさ、とうたう。妻の死は、じぶんの命と引き換えて余りある、と言うのだ。それを認めたうえで、気にかかるのは上句である。君は死んじゃったんだから、もういいじゃん、なんにもしないで寝てたって。これに近い感情は、甘えであり、不貞寝。愚かしくて、幼くて、悲しい。それは理性、分別からの逃走であり、解放への道筋なのではないか。妻が死んで、じぶんが生きているとはどういうことか。自分以外に応答できない問いかけに、歌人は単独で言葉を追い求める。

 

きみ逝きてわれは百歳年とれど生きてゐるかぎりきみにとどかぬ

 

先の歌と同じ構造。下句の「生きてゐるかぎりきみにとどかぬ」は、せつない措辞である。上句も、内容的には同じことを言う。生と死との決定的な断絶。その事実が、生きている者には残酷であり、はてしないむなしさを感じさせる。老いの先に死が待つというのは、私たちの常識である。その常識は何も言っていないに等しい、と歌人は感じる。幼いように見えながら、常識ではたどりつかない発想なのである。

 

歌人としての経験によって、言いかえれば知の蓄積によって、歌らしいものとはどのようなものかを、歌人は知っている。伝統に学ぶと言うこともできよう。また、じぶんが生きていることを通じて、生きているそのことをあきらめたいという願望は、けっして渡辺ひとりのものでもない。わたくしの狭い知見でも、西行という人はそうだったと思う。それをたどるにも、さまざまな取り組みがあるだろう。渡辺に突出しているのは、今わたしが生きているという生なましさへのこだわりだ。理屈抜きの、制度化されない、子どものような言葉をつかみ出してくる。おそらくそこに、非知的な型破りな発想が生まれる。

そして、知によらない探求は、身体による探求となってあらわれる。

 

牡丹(ぼうたん)のほとりにきみはたたずむか抱けばひかる空気あるのみ

 

牡丹は、はなやかな大きな花をひらく。それを見ながら、連想は亡き「君」におよぶ。下句は、「君」の非在と自身の空白を告げる。ただ、その空白は、はっきりとした形とにおいと重さとぬくもりを持つ。彼が彼女を「抱く」からである。死者を思い出すとは、その人の生を思い出すことであり、エロスを感じることであると、私たちはこの歌からはっきりと知る。「君」が死んで、わたしが生きているというのは、わたしがエロスを感じ続けるということなのだ。渡辺の歌が生なましいのは、このエロスに満ちているからにほかならない。

 

となりあふだけでは抱きあへぬ椅子いすといすとの距離十センチ

きみの手のぬくみをわすれられぬ手は白いきみの手の冷たさも知る

 

歌人は、身体の感覚によって、感覚とじかに結ばれた言葉によって、死者と繋がっている。

次に、格別に渡辺らしいというのではないが、心に残る挽歌をあげる。

 

ががんぼのあかりしやうじによくあたりよく(わら)ひにし君なしいまは

苗場にてシュプールゑがきき死はすべて他人のこととおもひて君と

 

「ががんぼ」は、手足の長い大きな蚊のような虫で、見るからに軽そう。ふわふわと飛んで、たしかに障子に当たったりすると、かさっという音を立てる。そんなに面白い光景でもないから、妻の陽気な人柄がかえって偲ばれる。二首目の「死はすべて他人のこととおもひて」は、壮年までのほとんどの人がそう思っているだろう。これらの歌の姿は、破綻がなく、端正である。妻の死を前にして、生きるとはどういうことなのかという苦悶があらわれない。それよりも亡き妻への愛をたしかめる。

いったい読者は、人が人を愛する歌を読んで、どうして心が揺れるのだろう。所詮は、じぶんの与り知らない人たちの間のことなのに。わたくしの場合はいたって簡単で、こんな風に人を愛したいと思うからである。歌を読み、詠んだ人の心に触れ、こういう心もちでありたいと思う。心とか、愛とかいったって、形もにおいもないけれど、言葉は見えないものを伝えてくれる。とくに短歌なぞという夥しい類型がある詩型は、それがその人の正味の心なのかどうか、一目瞭然のところがある。窪田章一郎に、

 

詩は蘭の香なりといふや通ひ合ふ香をぞ尊ぶわれらの詩と歌

 

という歌がある。中国の詩人たちとの交流の場で詠まれたと、本人から伺った覚えがあるが定かではない。あるいは、交流の時の経験を、後で詠んだのだったか。記憶が曖昧であるが、とまれ、詩や短歌は、姿かたちはないけれど、香るように伝わるという趣旨に納得した。

そういった点で、なにげない日常の妻を詠んだ、先にあげた二首の歌からは、渡辺の妻に対する日頃からの愛を感じる。愛する心を持ちながら生きるというのは、悪いこととは言えないだろう。「きみ」ではなく、「君」と表記がしてあるのは、今述べたような愛の確認の歌であって、自分の生との格闘の要素がほとんどないところによると思われる。

 

わが胸にさぶしきすきまあるゆゑにすきま灯せりひとかげを立て

 

「きみ」も「君」も登場しない。かわって「ひとかげ」が立つ。みずからの死を願うこともない。ただ「すきま」が胸の中を占める。妻の死を相対化しつつあるとも言える。「すきま」というけれど、その闇がどれほどに深いかは、歌集を読んだ者は知っている。この「すきま」が埋まることは、生涯ない。私たちは、実生活で「すきま」という空間を目で見て知っており、身体でその空白を感じることができる。それによって、私たちは、渡辺の抱く空白とそれと同量の愛を共有することが可能になる。

 

渡辺は、周知のごとく筋委縮性側索硬化症(英語の略称はALS)である。私たちには当たり前の言動をすることが、ほとんど不可能である。にもかかわらず、渡辺の言葉は、私たちのそれよりも生々しい生、エロスを感じさせ、私たちの言葉よりもみずみずしく、鮮やかである。

 

空の涯わが眼のふちに来てみれば零さぬようにまなこをとぢつ

 

歌は、空が身体の中からあふれて目からこぼれそうになったと詠む。わたくしは、静かにまぶたを閉じて涙がこぼれないようにしたのだ、と思う。渡辺の身体の中には、私たちが見るような広い広い空がひろがっている。私たちは、ふつうそれを想像力とか想像の世界とか呼ぶ。私たちのそれと渡辺のそれとを比べると、私たちの想像世界の貧しさがわかる。

 

おほ鏡にうつるおほ空いまここにゐないだれかがわれには大事

えーえるえす、ゆめではなんと自由です、牧水の足で渋峠越ゆ

 

一首目。渡辺の空には、「いまここにゐない」大事な人が棲んでいるのである。

二首目。「えーえるえす」は、ALS、つまり筋委縮性側索硬化症のこと。この病に罹りながら、彼は、夢つまり想像の世界では自由だと言い放つ。私たちは、日常を当たり前に暮しながら、どれほどに想像力をすり減らして、どこかで誰かが決めたことを繰り返していることか。

 

むらさきは虹のいちばんうちのいろ地上のこゑのさいしよにとどく

 

虹のいちばん内側のむらさきのところには、だれかがいるんだろうな、と思ってしまう。亡き妻にとどく声。一首から、そんなテーマを想像する。そう考えたら、渡辺松男は妻のために歌を詠みつづけるのだろうと思い、その自分の思いつきを信じることにした。胸の「すきま」に「ひとかげ」を立てるって、そういうことではないんだろうか。

 

先に、「歌を読み、詠んだ人の心に触れ、こういう心もちでありたいと思う。心とか、愛とかいったって、形もにおいもないけれど、言葉は見えないものを伝えてくれる。」と述べた。そんなことを思わせる歌をいくつか引く。

 

あかるいところ選びて雨のふるがみゆ やさしさつてほんのすこしの加減

水仙の芽をつつむ陽をどこにでもころがつてゐる愛とおもふな

 

暗澹とした世界にも、かかる明るさがあることを、やさしさと愛とが存することを、渡辺の歌は伝える。

渡辺が迢空賞を受賞した時、岡野弘彦氏が「わたくしの余命をすべてあなたに与えたい」と述べられた。美しく、忘れがたい言葉である。