柳 宣宏


自己防御的な時代に~山田航歌集『水に沈む羊』をめぐって~

6月の初めの頃だった、山中で行方不明になった6歳の男の子のニュースが、メディアにひとしきり流れた。両親がお仕置きのつもりで、5分ほど置き去りにしたところが、戻ってみたら居なかった。それで大騒ぎとなって、自衛隊までもが捜索にあたった。幸い1週間ほどで、男の子は無事保護された。ふだんは無人の自衛隊の野外施設に潜り込むことに成功し、彼は雨露をしのいだ。自衛隊員に見つけ出されたとき、名前を尋ねられた彼は、「うん」と短く答え、差しだされたコンビニのおにぎりを、むさぼるように食べたという。

面会した両親に対しても、「うん」と短く答えるのがやっとだったらしい。

事件が解決した直後に、男の子が心配だという新聞記事を読んだ。そんな目に遭って、ようやく助けられた子どもは、少なくとも両親の顔を見たら泣き出すはずだ、という専門家の見解が載っていた。ひどく辛い目に遭うと、周囲に対する警戒心が強くなり、自己防御的に黙るのだという。脅威や恐怖に対して自己防御的になるというのは腑に落ちる。そう思った。

 

山田航歌集『水に沈む羊』の巻頭2首目は、ページの真ん中に1首だけを載せる。

 

発車したバスがつくったさざ波は自分を水たまりと知らない

 

バスが出てゆき、空を映すさざ波がクローズアップされる。カメラが引いてゆくにつれて、そのさざ波が小さな水たまりの上のことにすぎないことがわかる。さらにカメラが引いてゆくと、なんの変哲もない街並みが見えてくる。この1首が、これからこの町で何かが起こる、その幕開けのような場面……には、ならない。「さざ波は自分を水たまりと知らない」というのは、「さざ波」にとって「水たまり」が全世界であって、「水たまり」は「水たまり」としては存在しないということである。この歌がイメージするのは、水たまりと水、それだけ。

 

ガソリンはタンク内部にさざなみをつくり僕らは海を知らない

 

この歌の「さざなみ」もまたガソリンタンクの内部から外へと広がることがない。下句は「さざなみ」の置かれた状況が、「僕ら」の置かれた状況そのものであることを明かす。1首を構成する言葉は、生活次元で見聞きするものであるが、掲歌2首は作者の世界認識がモチーフとなっている。批評言語の抽象性が、生活レベルの言葉を用いることで、辛うじて地上に繋がっている。これは、作者の力量である。

歌集は、4つの題名の付いた章に分かれている。順に、「辺境」「長歌 啄木」「バイパス・ラブ」「水に沈む羊」。先の2首は、「辺境」に収められる。その「辺境」の世界は、次のような外貌を示す。

 

運転手フロムフィリピン未明から未明へとすべりゆくタクシー

街ごとに途切れ途切れのあおぞらが二羽のとんびを分け合つてゐる

駅前のバスプールより見えてゐた塾数件のまばらな光

 

格差はグローバル化され、低賃金をいとわない外国人労働者が身を削って働く。日本語もたどたどしい感じを伝えて、「運転手フロムフィリピン」の措辞が活きる。高層ビルに仕切られた矩形の青空は、人工空間と呼んでも構わないだろう。そんな「途切れ途切れのあおぞら」に飛ぶ二羽のとんびは、まるで絶滅危惧種のようである。そんな人工空間の中の駅前にある塾もまた、偏差値をたたき出す子を育てる人工孵化器のようだ。

いったいそこに住む人々は、どのような風貌をしているのだろう。

 

表紙だけ剥がれて無料求人誌びしょ濡れのまま路上に朽ちる

 

無料求人誌が無様をさらしている。だが、これは雑誌のことなのか。この求人誌を目を皿のようにしてページをめくっていた人間の、その後を暗示しているのではないか。

次の歌は、この歌集が批評性の高い、抽象的な思考によって構築されたものであることをよく示す。

 

濾過されてゆくんだ僕ら目に見えぬ弾に全身射抜かれながら

 

海水から食塩をつくろうとするときには、海水を沸かし、それを濾過して不純物を取り、また沸かし、という工程をとる。ふつう人間は濾過しない。この比喩は、「僕ら」から、何かが都合よく奪われる感覚を詠む。奪うのはだれか。下句を読むと、「僕ら」はマシンガンで撃ち抜かれてしまうのだが、そうそう起こることではない。実は、「見えぬ弾」で撃たれるので、意外と気づかない人もいるようだ。この比喩は、姿かたちのある人間が「僕ら」の命やら何やらを奪っているのではなく、システムとか社会とか資本主義とかの、いわゆる共同幻想が、僕らから何かを奪っているというのである。この歌集の歌が、抽象的な思念や認識をイメージ化して詠んでいることが、明瞭に表れた歌なのである。

この歌集の多くの歌は、そのようなテーマ性を秘めながら、生活次元の言葉の斡旋によって、詩化を果たしている。次にあげる歌などががそうだ。

 

鉄塔の見える草原ぼくたちは始められないから終はれない

監獄と思ひをりしがシェルターであつたわが()のひと日ひと日は

赤ずきんちやんにメイクを施して立ち去るあれは資生堂員

だだっ広い駅裏の野にたつこともないまま余剰として生きてゆく

 

かつて寺山修司の歌の主人公は、荒野にヒマワリの種を蒔いた。山田の歌の主人公は、何事かを「始める」ことすら奪われている。「シェルター」にいることは、「監獄」にいるより幸せだなんて言わせない。どっちにいたって自由は奪われている。「赤ずきんちやん」に幻想を抱くことは、資生堂の社員によって奪われている。君たちは余剰、つまり余り物なんだなあ。本来居なくていいわけよ。そう、歌の主人公は、居場所を奪われている。

 

「奪われた者たち」は、何を思い、どう生きるのか。

 

昭和製のコイン入れれば震へ出す真夏を回りつくすさざなみ

からみあふことでかたちになるものを僕らは求めそして壊れた

絡み合ふ、ねじれる、上が下になる ここは僕らの暮らしの要約(サマリー)

縋るように抱けばおまへの身体ごと煙草の苦い味がしてゐる

病院の経費で落ちたエロ本をめくる。めくるんだが勃たねえよ

 

「さざなみ」は事件性の比喩なのだが、それもコインランドリーの中のことにすぎないというのは、冒頭に掲げた歌と同じである。2、3首目はコインランドリーのような閉ざされた場における性愛をうたう。2首目にモチーフが明らかである。求めてもかなわない、と。4、5首も同じ。うたわれているのは、求めても、求めたものに至らないイメージである。素材が、コインランドリーであったりエロ本であったりすることで、この不全感が現実の生活感情であることを訴える。

 

ここまでにあげた歌について述べたことを、簡約してみたい。

この歌集には、作者の世界認識が明らかである。歌集の世界は、格差社会の底辺に近く、そこに住む人たちは希望や喜びを持つのが難しい。何かをしようとしても、この社会で、ふつうの人と同じスタート台につくことができない。閉塞感、喪失感、不全感、空虚感。

この歌集の内なる人たちは、そのような感情を抱いている。それが、現実であることを、作者はうたう。

これらの抽象的な認識や批評性が、歌の結構を崩さないのは、作者の表現の力量によるところが大きい。

このように述べた上で、そのような世界にいる人たちの少年期を振り返ってみよう。作者は次のようにうたう。

 

ピアスとは浮力を殺すため垂らす(おもり)だれもが水槽の中

はみ出すことを弱さに変へて僕は僕を欺くために眠るしかない

 

この2首は「水に沈む羊」の章に収められる。この章のテーマは、学校におけるいじめである。作品を引くことをしないが、作者の認識によれば、閉ざされた空間の底辺部では、「奪われた者」が奪い返す代償行為として、暴力をふるって他の「奪われた者」からなけなしの人格を奪うのだ。掲歌はともに、苛められないためにはどうするかがうたわれる。

やりたくもないのに「ピアス」をあけるのは、恭順の証であり、「弱さ」を前面に押し出すのは、無抵抗の意思表示だ。

このような少年期の体験と次の歌は地続きである。

 

二度と会ふ必要なんて別にないけれど元気でゐてほしいひと

 

関わりになりたくない人の健康を祈る歌。なんかねじれている。どうして元気でいてほしいのか。自分とかかわりのあった人が不幸になられては、気になっちゃうからだろう。できれば、ほんとに、自分に負荷をかけるようなことをしてほしくないのだ。

この歌は、第一章の「辺境」に収められる。つまり、少年時代のこととしてではなく、この社会で生きる者の感情としてうたわれる。

周囲が恐怖や脅威に思われたとき、あの山中に置き去りにされた少年は、周囲を警戒し、周囲に対して感情を殺した。それは、自己防御的なことと呼ばれる。

山田の歌集を読んで、今日の現実は自己防御的な時代だと思った。そう思わせる力が歌にある。

その上で言うのだが、わたくしのように読むと、つまり、十分に個人的な感想だと知った上でいうわけだが、各章の歌が、素材は異なっても同じ味わいに感じられる。また、歌にあらわれる認識や批評に、既知の感じが伴う。

一読者のわがままを言わせてもらえれば、次の山田の歌集に、突き抜けたイメージの作品を読みたい。