柳 宣宏


身体感覚の可能性~森垣岳歌集『遺伝子の舟』をめぐって~

冒頭に「堆肥」がにおう歌集も珍しい。

 

ぬかるみの強き畑に散らばって生徒らの撒く堆肥のにおい

湿り気の残る堆肥を一斉にまけば華やぐ大地の匂い

 

森垣岳の第1歌集『遺伝子の舟』の冒頭、「栽培実習」一連の初めと2首目である。

小題と1首目が一連の導入にふさわしい。歌の主体「私」は、農業高校の先生であり、授業の一環として堆肥を撒く必然性が理解される。

ところで、わらや落ち葉が腐った塊が畑一面にぶちまけられて、華やぎを覚えるような匂いがするのだろうか。「華やぐ」には、自然と一体となって働くことへの肯定感が紛れもないのだが、それでも思う、堆肥は華やぐ匂いか、と。その上で、この意外な組み合わせこそが、この歌の魅力に相違ないと確信する。堆肥の匂いを嫌うデオドランド人間、いわゆる臭い、汚い、気持ち悪いを生理的に排除する現代人に、この歌はおのずから対峙している。

同じ一連の歌を引く。

 

明日もまた勤務日となる金曜に種まく土を混ぜて過ごせり

てのひらに種を落とせり宿題は「実り豊かな夏を迎えよ」

種売りの青年一人夕暮れの職員室に種もちて来ぬ

収穫の時期を逃して黒々と重く負担となりて下がれり

 

きっと金曜日は在宅研修日で、学校へ来なくてもよかったのだと推測するが、土曜日に実習があって、その準備に出勤しなくてはならなかったのだろう。やれやれっていうところ。

珍しくない感情が、「種まく土を混ぜて過ごせり」で、新しくなる。

先生が、夏休みを前にして、生徒たちに「実り豊かな夏休みを過ごすように」と諭すのはマンネリもいいところなのに、「てのひらに種を落とせり」でいきなり生彩を帯びる。こんな浪漫的な「宿題」を与えたことも与えられたこともない。

出入りの会社関係者が、学校に教材を売込みに来たり、搬入したりするのは、他の仕事と変わらない。でも、それが「種売りの青年」となると、ちくっと胸が痛む。あなたは命を商っているんですか的な気分が働く。ヒューマニズムについて語る気はない。私たちは、暮しの中でこのような生命を相手にすることへの敏感さを失っているかもしれない、とこの歌は思わせる。

私たちは、お金のことや子どものこと、老いた親のことなどで負担を感じて暮らしている。それはとりたてて言うほどのこともない。だが、「収穫の時期を逃して」垂れさがる、黒い胡瓜や茄子の形と重量感を知覚するとき、こころの「負担」が量感をもって迫ってくる。

作者の方法は、不定形、不可視の感情やイデアを知覚によって可視化するというものである。それは現代短歌の正攻法であるとも言える。ただ、その際に用いられる言葉が、断然新しい。そして、その言葉の新しさが、作者の身体を通した経験から生まれているので、私たちは「堆肥」や「土」や「種」を通じて、作品主体である「私」のいきいきとした感情を感じる。

 

作者は、「農学出身で農業の教員として勤めている」(「あとがき」)と記している。そこからこんな生徒の歌が生まれる。

 

植え込みのまばらに枯れたツゲの木と劣等生に親しみを持つ

高貴なる顔の女生徒平然と新雪白きレポートを出す

草引きを終えた生徒が振り返り「先生僕に母はいないよ」

イオン結合図解の用紙飛行機に化けて夕べの床に落ちたり

友人の少ない生徒サイダーのビンに小さき蛇入れて来る

 

劣等生を陰ながら応援する先生は少なくない。ある基準に照らして優劣をつけているにすぎないことを、先生たちは感づいているからだ。その基準に、人間くさくていい奴だ、なんていうのはないから。「私」の「枯れたツゲの木」に寄せる愛情は深い。それがそのまま「劣等生」に寄せる親しさに他ならない。

つんと澄ました顔で、白紙のレポートを提出してくる生徒。なめるなよ、と言いたくなるところだが、「私」はなんだか感心しているようなのだ。「平然と」している度胸の良さ。白紙のレポートを「新雪」のようだと思わせる堂々とした態度。「呆れてものが言えない」と思いつつ、「敵ながらあっぱれだなあ」と思っているのかも。

草引きは単調な肉体労働である。生徒は一心に取り組む。時間をかけて草引きを終え、生徒は充実感を覚えたことだろう。彼の心に雑念はない。「先生僕に母はいないよ」というひと言は、そんな折に発せられたであろう。それは先生の胸に突き刺さったに違いない。でも、先生の胸の痛みがこの歌のテーマではない。草引きを終えた生徒の無心な気持ち、母のないことを乗り越えようとする成長が、テーマなのである。

「イオン結合図解の用紙」は、印刷をして生徒に配布したものである。これがあるとイオン結合の理解が進むであろうと思われる。そんな手間と気持ちを、生徒は知らない。溜息のひとつも吐きたくなるが、この歌のいいところは、「わざわざ」とか「せっかく」とかいった大人の歎きがないところだ。

友達の少ない少年は、「小さな蛇入りサイダー瓶」を、先生のところに持って来た。残念ながら、それを喜ぶ生徒はほとんどいない、いや、まったく。でも、先生なら喜んでくれるはずなのだ。もちろん、先生は喜ぶ。これじゃあ、友達は少ないか、と思いつつ、この少年の世界を先生は尊重していることだろう。

学校は生徒を評価する。基準があって、それに則って、大変良い、よい、普通、やや悪い、大変悪い、ってな具合。この先生がうたったのは、そんな基準には当てはまらない生徒たちだ。作者には、作者ならではの視点があり、視野がある。それがこれらの歌のオリジナリティを担保する。

 

指導者と呼ばれてますが革命も解放もせず農場に立つ

農業に明日はあるかという問いに芋虫はただ黙秘で通す

害獣のごとき食欲 信濃より送られて来し林檎を齧る

畳には畳の虫が潜みおり背を掻きながら窓を閉ざすも

 

歌の対象が自分自身。自画像的な作品である。彼は、革命も解放もしない指導者であり、「芋虫」であり、「害獣」であり、背中を虫に刺される男にすぎない。そんな男を描きながら、歌は精彩を放つ。「農場に立つ」「黙秘で通す」「林檎を齧る」「背を掻」く。繰り返すことになるが、生活を歌の場として、身体を通して、感情やイデアを可視化する。働きながら、人とかかわりながら、食べながら、虫に刺されながら、つまり、生きながら感じ、思ったことを歌にする。彼は、どの歌を見ても、えらくない、強くない畳に潜む虫よりも強くない。えらい、えらくない、強い、強くないという基準からすれば。彼は、虫にまったき一ついのちを見る人であり、自分自身をもそう見ている節がある。「芋虫」も「害獣」も、自然界では等価の命であることを思う。

 

透明な唾液垂らして草を食む牛の体を撫でて帰りぬ

田の穴に捨てられているトマトらは今もかすかに息をしている

 

「透明な唾液垂らして」は、いかにも牛らしい。牛の生態をよく見ていないと出てこない措辞である。これによって、牛は概念ではなく、生身の牛となった。それによって、「体を撫でて帰りぬ」が、活きた。人間と牛とが気持を交わして、別れる。生命の交感という美しいテーマが、暮しのうちに実現している。

「田の穴に捨てられているトマトら」は、事情があって公然とそうなっている。人間の都合による、ということだ。「トマトらは今もかすかに息をしている」というのは、「私」の身体が感じた事実である。過剰な感傷はない。生命との交感は、このような形でも現前する。わたくしはわずかな痛みを作者と共有する。

 

死に絶えたえびの水槽片づけて「おれは今日から自由となった」

 

えびを生かしておく手間から、解放されたのである。それが、「自由」。「私」は喜んでいない、と思う。介護からの解放。心身に障害をもった者の看取りからの解放。それは、自由なのか。この歌は、その問いかけを孕む。下句がカギかっこ付きで歌われていることに、目を向けなければならない。

 

立ち上がれ!そのまま死ぬな!足を病む鶏一羽うつむいており

 

一羽の病む鶏に、生命の尊厳を見ている作者がいる。

この歌集には、土と野菜と虫と動物と人間と、命の尊さで結ばれる関係がうたわれている。

自然と人間との交感を歌って、心に残る歌集である。