柳 宣宏


イメージの重層性について~吉川宏志歌集『鳥の見しもの』をめぐって~

のっけから聖書の言葉を引こうと思うが、イエスの言葉は長いので、いちばん有名なところを引用する。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(「ヨハネによる福音書」第20章第24節)

この言葉はさまざまに敷衍されて、語られることが多い。宗教家によれば、キリストが自身の死の意味を語ったのが原義である。イエスは、民衆のもろもろの罪を一身に引き受けて、あえて磔刑に処せられた。それによって、民衆に救済の道が開かれた、と。

このあたりの議論の詳細は、自分の手に余る。とまれ、イエスは、民衆のために犠牲となることをいとわなかった人らしいのである。

 

本題は、イエスではない。吉川宏志歌集『鳥の見しもの』である。

 

磔刑の縦長の絵を覆いたるガラスに顔はしろく映りぬ

 

基督磔刑之図である。すぐれた作品なのだろう、ガラスケースにおさまっている。観ている者の顔が、そのガラスに「しろく」映っている。顔色を失う、という言い方があるが、立ち尽くす感がただよう。どうして立ち尽くすと思ってしまったのか、とわたくし自身に問うてみる。目の前に描かれているのは聖なる犠牲者であるが、誰のために犠牲になっているのか。そう、民のため、観ている自分のためである。でも、自分は彼を助けられない。かと言って、知らない振りもできない。ひそかに罪の意識が兆す。それが、彼が立ち尽くす所以ではないか。

 

わたしたちはアフリカの飢えた子どもたちのために、募金や支援物資を送ったりする。それは善意から発している。しかし、そのようなわたしたちに、現代アラブ文学の学者である岡真理は、被害者に同情し、被害者の立場に立って、自分には罪がないような顔をしてはならないと強く戒める。アフリカの飢餓は、先進国と途上国との格差を要因として起きているのであり、先進国に暮らすわたしたちの加害者性は免れない、と。(『彼女の「正しい」名前とは何か』、2000年青土社)

 

吉川の歌の中で、白い顔をした男は、岡の言う加害者性を感じている者であると思う。聖書まで持ち出して、わたくしが拘ったのは、この歌には、それほどにイメージの広がりと深さがあるという点である。

 

砂肝にかすかな砂を溜めながら鳥渡りゆくゆうぐれの空

 

鳥は歯がないものだから、砂肝に小石や砂を溜めておいて、それによってくちばしで捉えた餌を砕いてつぶす。どうやったらつぶれるのかは、寡聞して知らない。だが、この歌から感じるのは、鳥のそのような機能面についてではない。目には見えないが、違和感を覚えつつ生きる生き物の悲しさである。鳥の砂肝を歌って、存在の悲哀に迫る。目に見えないものを、内臓の手触りと重さ、砂の質感と重量に具体化したのである。この歌にもイメージの広がりと深さを思う。

 

鋭い観察と鋭敏な想像力によってもたらされた具体物が、わたしたちを新しいイメージの世界へ導く歌を、さらに挙げていきたい。

 

学校は直角の場所 ゆうぐれにテストひとたば持ちてあゆみく

窓の下緑に()るを拾いたりうちがわだけが死ぬコガネムシ

 

四角い校庭の中に、楕円形のトラックを白線で引くと、はい、運動会のコースの出来上がり。四角い鉄筋コンクリートの3階、4階建ての建物に、四角い窓がすらりと並んで、四角い口を開けた昇降口を生徒が出入りする。教室はほとんどが四角くて、黒板も四角。ほんとに四角いなあ。その四角性は、刑務所や病院に似る。機能的とはそういうことなんだろう。でも、言われると、少しさびしい。人間は本質的に、四角になじまないのではないか。

うたわれている通りなのだ、コガネムシの死は。死後さほど経過していなければ、緑色に輝いている。「うちがわだけが死ぬ」と詠まれたとき、コガネムシの死は緑に輝く存在として、永遠に記憶に残ることになった。小林秀雄の言葉だが、子どもに死なれた親は、子どもの死顔を思い出すのではなく、笑っていた時の顔を思い出して悲しいのだ。コガネムシの死を詠んでいるが、小林の言うような人間の心の機微に思いはなびく。

 

ぶどう食べ終えて小さな枝残る鳥が咥えてきたような枝

夕立のまえぶれの風吹ききたりアメンボは横に流されてゆく

ビニールに包まれ白き櫛があり使わずに去る朝のホテルを

 

わたしたちはぶどうの実には関心があるが、食べ終わった後のぶどうには関心がない。だから、実のついていないそれを、枝なんだと言われて、はっとする。枝ならば、鳥が咥えもするだろう。いや、鳥の視点でぶどうを見ている人には、不思議ではないのかもしれない。そうならば、作者は鳥の目を持つ人だということになる。世界を見下ろせる、と言っても別にえらそうなわけではなく、世界が相対化して見える人なのだ。歌集名が『鳥の見しもの』というのも腑に落ちる。実際には、「鳥の見しものは見えねばただ青き海のひかりを胸に入れたり」からとったと思うけれど。

少し強い風が吹くと、木の葉はそよぎ、道ばたのビニール袋は転がってゆく。でも、広くはない水の上にいるアメンボは、「横に流されてゆく」のである。縦に行きたいという意思は、風の前に全く放棄している。それでいて軽やかである。あめんぼってなんだか絶対他力の信徒みたいだ。

3首目は、一言で言えば、ビジネスそれ自体にひそむかすかな悲哀の歌。「使わずに去る」という欠如の感覚がそれをもたらす。

繰り返すが、作者の試みは、具体を歌って、目に見えないものをイメージ化するところにある。

 

数は少ないけれど、子どもを詠んだ歌に魅かれた。

 

かぜがおもい、風が重いと言いながら青い傘さす子ども歩めり

ひらがなを初めて習う子に見せる「つくし」三つの釣り針のよう

ときどきは白き狐の貌をするむすめが千円くださいと言う

 

台風でも来ているのか、真正面から雨とともに強い風が吹きつける。盾で飛んでくる矢を防ぐかのように、傘を身体の前に突き出して歩く。傘はまともに風圧を受けて、撓う。風に立ち向かうことを楽しむ無邪気な子どものようでもあるし、困難に立ち向かう小さな勇者のようでもある。子どもを歌って、肯定の感情があふれている。

2首目は、何かの機会に、初めてひらがなを習う子どもたちを前にした折の作であろう。

「つ」「く」「し」。確かに釣り針のような屈曲を見せる。この楽しい発見にも、子どもの存在を肯定する感情を覚える。

「狐の貌」には、小狡いイメージがつきまとう。とは言え、親から千円を巻き上げるには、そのくらいでなければ、ことは成就しない。親だって憎からず思っているのである。

歌うことが、人間に対する肯定の感情に繋がる。

 

歌集『鳥の見しもの』は、イメージの重層性、現実を切り取る独自の感受性、存在を肯定する感情といった点を持つすぐれた歌集だと思う。

一方で、この歌集にはメッセージ性の高い歌も多い。

 

見るほかに何もできない 青海に再稼働を待つ大飯(おおい)原発

明日はまた仕事があるので帰ります 電気に満ちた街に帰ります

何もできず、何もできねば座りたり黒き舗道にてのひらを置き

 

原子力発電に反対する意思とみずからの無力にさいなまれる感情が紛れもない。この文章の冒頭に掲げた歌を、あらためて引く。

 

磔刑の縦長の絵を覆いたるガラスに顔はしろく映りぬ

 

この白い顔の男の心のうちに去来したものを想像すると、右の3首の内容も含まれるのではないか。この歌自体は現実の事件性に触れないが、歌集のうちに置かれたときに、現実の事実を呼び覚ます力がある。それをイメージの広がりと深さと言ったのである。このような歌が吉川宏志という歌人の良さを際立たせている。逆に言えば、メッセージの明らかな歌が、イメージの広さと深さの方向性を決めているとも言えるのだ。

いま少し歌を引く。

 

半分に切られし虫がまだうごくように日常は続いておりぬ

お母さん、殺していいものをこの紙に書いてよ蟻とか団子虫とか

基地の柵に押しつけらるる人影をネット画像に見たり 見るのみ

 

1首目は原発事故災害その後を歌う。2、3首目は安保法制に対する批判が明らかである。

ここには、この現実に生活する者の怒り、悔しさ、情けなさが、生活感情に接近して詠われる。このような生活に根差した個人の感情や思索を手放すとき、歌は糸を離れた凧のように浮遊するだろう。

実はこんなことも、言わずもがなのことである。吉川自身が、次のように歌っている。

 

言葉にせねばついに怒りとならざらむ桜の花の鱗なす道