内山晶太


修辞との距離感など  —大西淳子歌集『さみしい檸檬』について—

ためらいは一つもなくて目覚めたり婚姻届出しにゆく朝

飛び立つにはまだ早いよとたんぽぽの綿毛はわれの「ふぅ~」にあらがう

 

 

大西淳子歌集『さみしい檸檬』は、なかなか語るのがむずかしい歌集だ。基本的な構成は人生の時間の流れに沿っており、自身の結婚や退職、肉親の死という生活のなかの大きな出来事がいくつもの柱をかたちづくっている。それゆえ、一首一首の背後には「生活者」の存在がぴったりとくっついている、と読みながら感じさせられる。現実という幹がどっしりと根をはっていて歌はそこからの枝葉として姿を現す。ただ、その現れかたが従来の短歌作品とは一味違った独特の感触を伴っていたりする。一首目、まぎれなき婚姻の歌である。歌意も明瞭で力強い。往々にして歌人というものは、こういった喜ばしい場面でもそこに影を生み出しそれを凝視してしまうようなところがあるけれども、大西作品にはそうした屈折は見られず、喜ぶべき場面をそのまま喜びとしてうたっている。「ためらいは」という言葉を初句にもってきたことを考えると、たしかに少しの影を感じなくもない。ただ、そこから先は全面的な幸せへ向かって言葉が行進していき最後まで幸せへの行進をやめない。二首目はたんぽぽの綿毛に息を吹きかけているが、たんぽぽの綿毛は飛ばないという現象。そこに初句二句での擬人化を取り入れていくあたりは若干インスタントな感じがする。にもかかわらず、「ふぅ~」でさらにそちら側へ食い込んでいく。植物の擬人化、特にたんぽぽやチューリップといったものの擬人化というのは、ほぼほぼうまくいかない。それは擬人化とそれ以外の叙述とのバランスが取りづらいからだ。たいていはバランスを取りにいって中途半端なまとまりをもって終わる。なのにこの歌はバランスを取りにいかない。「ふぅ~」で拍車をかけていることで、上句の擬人化が救われているのである。

 

「二物衝撃」という言葉がある。ざっくり言えば、次元の異なるふたつの存在を同次元に置くことで、そこに落差が生まれる。詩的飛躍を生じさせる。かつ、同次元にあることである種のバランスも担保される。修辞というものにはいろいろな側面があるけれども、大きな方向としては二物衝撃に代表されるように、こうした落差また緩急の感覚を生じさせるものだといえるかもしれない。こうした差異というのは、いたって簡単に考えれば、例えば、細密さと粗大さのあいだに、高さと低さのあいだに、光と影のあいだに生じる。そして大西のたんぽぽの歌を、光と影の例で考えてみると、それは二物衝撃ありきの光と影ではなく、光とより強い光でありそれによって差異が生じているような感覚に陥るのである。いわば、技巧としての修辞を積極的に研ぎ澄ましていかないことが、大西作品の特徴であり美質とも言える。

 

 

平日を正方形に生きおれば休日はほぼアメーバとなる

冷蔵庫と流しの間に落ちてもう取れなくなった箸、ふた、時間

 

 

一方で、これらの歌はそうした差異が理屈として処理されているように感じられる歌である。「正方形」は社会的な枠組みのなかの「わたし」、「アメーバ」はその枠組みから離れた個人的な「わたし」ということで、差異が常識的な因果によって固定されてしまっている部分があるかもしれない。二首目の「箸、ふた、時間」も「時間」がいわゆる「オチ」になっているように思われる。頭ではすとんと理解できるが、それだけにそこから先にゆきわたっていきづらい面がある。差異はあっても、それが流動している差異なのか固定化した差異なのか、このそれぞれの差異をもった歌が『さみしい檸檬』には混在している。大西の特色はやはり前者の流動した差異があらわれてくる歌のなかにあるだろう。しかし、むしろこの混在があることで、歌に対する過剰な制御を一冊の歌集として感じさせないという点は、先ほどの特徴、美質におそらくはつながってくる。

 

 

なぜかしら最後に残る飴玉はハッカばかりのサクマドロップ

おみやげとフレンチ・マリーゴールドの苗ふんわりと手渡される夜

すこすこと結婚指輪が抜けるほど痩せてしまいぬこの一年で

街はずれのひなびたビルで「金持ちになる方法」という講座あり

 

 

上記四首のような歌は、目立った修辞のない作品ということもできる。しかしどの歌も歌の背後がふっくらとしている。修辞は短歌にとって、ある意味では、なくてはならないものだけれども、うっかりしていると歌のなかに含まれている人生や人格のようなものを規定してくる、そういう力を持っている。修辞はそれを用いる作者のスタイルとなりやすく、そのスタイルに沿った人生や人格が歌のなかに構築されやすくなる。修辞によって、歌のなかの人生や人格は知らないうちにほそく絞られていきやすいものであり、やっかいなものでもある。そういう意味で、大西の歌はそこからほどよい距離をとっているのではないか。修辞の力をある程度手放すことによって、一首のなかにふくよかで区切られることのない人生のようなもの、人格のようなものを孕ませていると思う。これは一首一首を見たときよりも、歌集一冊を通読したときにより強く感受した印象である。

 

 

脱ぎてある君のYシャツ腕まくりしたままなれば解きてやりぬ

君が撮るわれの写真は米粒のようでいつでも空が大きい

会社には死んでも行くという夫その背に羽をつけてあげたし

 

 

夫に対するやわらかな気持ちが伝わってくるのは、主体が作中において十分にやわらかであることの反射だろう。こうした作品では修辞との距離感が主体に与える影響というものが、特に際立ってくる。大西作品は、刺すような刺激が得られる歌ではない。瞬発力で勝負してくるわけではないので、一見おとなしい印象を持つ。が、上記のような作品にはマイルドさというものがひとつの価値であることを教えられる思いがする。

 

 

リハビリの母の歩みはゆっくりと月の表面ゆくように見ゆ

たらちねの母の暮らせる柞田町(くにたちょう)どんぐりのごとポケットにあり

 

 

一首目は母の骨折をうたっている。骨折という出来事を経て、あらためて母の存在を確認するそのまなざしに、響きがある。二首目。母への気持ちが自身の身体をかぎりなく大きくしてゆくことと、母の暮らす町の遠さがそのまま小ささへ変換されてゆくことが何か混然一体となっていて、それでも感情はあかるく明晰である。おだやかな表現ながら、そこには散文化できない複雑さが内包されている。

 

『さみしい檸檬』はもしかしたら読者によっては評価が分かれる歌集かもしれない。けれども、埋もれがちなひとつの価値観を改めて新しく指し示してくれた歌集のひとつだった。最後に書ききれなかった三首をあげておきたい。

 

 

子をはさみ手つなぎてゆく親子連れM字の影をわれは畏れる

家計簿をつけてもカネは増ゆるなし枯れ葉さわさわ冬に入りゆく

菜種梅雨 春をしずかにはなやかにしてゆく 無声映画のように