「主体の見える歌」と「世界の見える歌」  —遠藤由季歌集『鳥語の文法』について—

いきなり本題に入るが、遠藤由季の第二歌集『鳥語の文法』のなかほどには次の一首がある。

 

 

表面に種浮き立たせ真っ赤なる苺を模様にして可愛いか

 

 

苺模様というのは、好きな人が比較的多い模様なのだろうと思う。赤くて小さいその見た目と甘酸っぱい味わいのイメージとが多くの人に好まれ、苺模様を見ると反射的に「可愛い」という感情が湧き上がることも珍しいことではない。果物でも梨模様やイチジク模様などというのは寡聞にして知らないし、やはり苺は果物のなかでもとくに模様として数多く流通しているものの最たる存在なのだろう。が、この一首ではイメージ上の可愛らしいイチゴを現実の苺によって上書きしている。

 

「表面に種浮き立たせ真っ赤なる」である。イメージのフィルターをはずしてみれば、いちごは「赤くて小さい」ものではなく、「表面に種浮き立たせ真っ赤なる」ものなのだということが、この一首からぐいぐい迫ってくる。この一首を見てもあきらかなように、遠藤作品はイメージの浮力に身をゆだねない。「そこ」に踏みとどまる頑なさが読み手に痛いほど伝わってくる歌が多い。

 

 

われの手が日々伝えたる体温の跡形もなく蛇口冷ゆらむ
障子にて包まるる感覚あらぬ家父、母、われは仕切られて居り
まだ硬きバターを塗りて窪みたるトーストを食む冷えた素足で

 

 

ふんわりとしたイメージを作品にまとわせることは少なく、きっちりと一本の木を彫り込んでゆくように歌が生まれていく。見方によっては、骨ばっている。無骨である。一首目、「われの手が日々伝えたる体温の跡形もなく」が克明であって、この描写、この物の言い方自体にひとりの主体の質量が宿っている。二首目の「障子にて包まるる感覚あらぬ家」というのも、その視点にというよりも、その視点が一連の言葉として現れるその現れ方にひとりの主体がいるという感じを否応もなく受けるのである。三首目。なんとなくの叙述ではなく「バターが硬いことによって、それを万遍なく塗るという行動に力が必要となり、結果、やわらかいパンが窪」む。ここに挙げた三首は、「そこ」に踏みとどまる頑なさがよく表れた作品といえるだろうし、言うなればひとつひとつの認識をきっちりとつなげていく直列的精神が色濃く反映したもののように感じられる。

 

 

分けて食むものなるピザを昼の母、夜のわれとで分けて食みたり
姉は温、われは冷にて食むうどん七味に染まるのはわがうどん

 

 

家族が詠まれた歌についてもことのほかきっちりしている。昼の母と夜のわれがあり、温の姉がいて冷のわれがいる。他の作者の作品であれば対比を強調することで歌の見どころを際立たせているものと捉えるのが筋なのかもしれないけれども、遠藤作品に関しては主体の存立にかかわる話なのではないかと思う。こうした切り分けは「対比の強調のため」というようなある種の余裕を前提としたもののようには見えない。このように切り分けることが、主体にとっては生きることそのものと強力につながっているように思われてならない。『鳥語の文法』を読んでいて、ふと息苦しさを感じることがないではないが、その息苦しさがひとりの紛れなき主体を読み手の前に連れてくるのもまた事実なのである。

 

 

コンビニはそのうち影も売るだろう闇をなくした夜を背負いつつ
明日のパンならぬ流行りのパンのため見知らぬ通りの庇に並ぶ

 

 

一首目には松木秀の「ああ闇はここにしかないコンビニのペットボトルの棚の隙間に」を、二首目には佐藤弓生の「ふうらりと焼きたてパンの列につく明日という日もあるものとして」を置いてみたい。それぞれモチーフは近いにもかかわらず、主体の読者への切迫度を基準にしてみればまったく異なる源を持った作品だということが分かるだろう。松木作品も佐藤作品も作中の主体は読者に触れながらしかし目の前を流れていくが、遠藤作品の主体はこちらに向かってこつこつぶつかってくる。主体の動く向きが違う。長々と述べてきたけれども、この点がおそらく『鳥語の文法』のもっとも特徴的な点である。

 

 

冬の枝はレースのようだ甘いのは悪いことではない、逢いにゆく
いつのまに足の甲にも雪積もりわれも景色の一部となりぬ

 

 

感覚の赴くままにふーっと馴染んでゆく手前で、いったんの照らし合わせが挟まれる。一首目では「甘いのは悪いことではない」と甘さにそのまま溺れることなくそれをひとつの対象として見つめなおし、二首目では景色「の一部」と認めることで景色の全体からおのずと切り分けられてゆく。この照らし合わせは、そうしたいからそうしている、というものとは異なり、逃れようなくそうなる、そうせざるを得ない部分が大きいような気がするのである。

 

 

空室の看板夕暮れ空に浮く麻雀牌のような白さに
強風に飛ぶ鴉たち鳴いているなきながらゆくものら鋭し
じっくりと板を吐き出しじわじわと段となりゆくエスカレーター

 

 

集中(特に後半部分)には上記三首に見られるように傾向の異なる歌も出てくる。一首目、空室の看板から麻雀牌まで意識がとどまることなく流れていく。二首目は鴉の動きと「なきながらゆくものら鋭し」がぶつかり合わずに併存している。三首目についても時間が認識によって囲い込まれていない。何らかの照らし合わせのない、世界の茫漠を茫漠のまま捉えた歌である。先ほどまでの「主体が見える歌」とは別にこれら三首は「世界が見える歌」とでも言えばいいだろうか。ここには歌のなかに風がかよっている。投げたボールが跳ね返ってくる壁が存在しない。投げたボールはそのまま空間に吸い込まれて返ってこない。心もとなさと心地よさの入り混じった気持ちにさせられる作品である。とはいえ、一冊の特色というものを考えたときにこうした歌が果たす役割はどれほどのものがあるのか、という疑問に打ち当たる。

 

「主体が見える歌」と「世界が見える歌」のどちらも『鳥語の文法』にはおさめられているが、これらの区別に一般的な優劣はない。ただ、『鳥語の文法』に関して言えば「主体が見える歌」に大きな特色があり、そこに息苦しさと紛れなき主体とが表裏一体で存在しているのである。言ってしまえば「世界が見える歌」の心もとなく心地よい魅力よりも、「主体が見える歌」の息苦しさのほうにこの歌集の価値を見たい、という気持ちが思いのほか強く沸き起こっている。