「われ」と「塗り重ね」の世界  —大室ゆらぎ歌集『夏野』について—

二十代のころ、インドを一人旅したことがあった。バックパックを背負って格安航空券だけ持って赴くままに異国を徘徊した。といっても、もともと行動力はそれほどないので、空港からニューデリーまで行ったあとはただただホテルの近所をうろうろしているだけ。そのさなかに海千山千のインド人に翻弄され残金が五十円になってしまったりしてインドの恐ろしさを目の当たりにしたのだった。どうにかお金の工面をしてガンジス川のほとりバラナシまでたどりつけたのは運がよかったのかもしれない。と、思い出話に花が咲きかけているのは、大室ゆらぎ歌集『夏野』を読みながら、たびたびよみがえってきたのがそのインド旅行での日々だったからだ。『夏野』にはたとえばこんな歌がある。

 

 

身は朽ちて流れ着きたり砂の上に清く連なる頸の骨かも
速贄にされた蛙がひと冬を乾きつづけて薔薇の木にあり

 

 

一首目、朽ちた身は剥がれて、骨だけが砂の上に残されている。「清く」にその骨に対する主体の価値が現れていることはほぼたしかなことだろう。二首目。枝に刺し込まれた蛙の早贄が時間をかけて乾いていく。いずれも瞬間的に視線をはずしてしまうような場面がとてもじっくりと、しずかに描かれているのがひとつの特徴である。見たくないものでもそれに蓋をしない。または、それはそもそも見たくないものではない。花が咲いたり雨が降ったり季節が移ろっていくのと同じようにただそこに亡骸がある、という感覚があって、この辺りにそこはかとなくインド的な価値観を感じたのかもしれない。これらの歌に悲しみや無常観はない。むしろあっけらかんとした明るささえ漂っているようにも思われるのだがいかがだろうか。

 

 

さらされて小(ち)さきけものの顎の骨三つばかりのしろき歯残る
この朝も道に轢かれて死んでゐるあまがへるの数を手帳に記す
落ち蟬に触れてするどき羽ばたきよ死ぬ間際まで生きてゐる蟬

 

 

一冊を通して見ると、かなりの数の野生生物の亡骸、亡骸でなくとも瀕死の生き物が詠み込まれている。もちろん一首の焦点はそうした亡骸のほうに当てられているのだけれども、その亡骸とともにあり、歌の焦点として決して表面に浮上してこない「地面」が、おそらくこれらの作品を支えている。「顎の骨」や「あまがへる」や「蟬」とともにあり、それらが置かれることを許しているのは、地面である。さまざまな亡骸の描写から見えてくるのは、むしろ地面への信頼であり愛着なのではないかと個人的には感じられるのだ。

 

 

鋤き込まれて真黒き土にきれぎれに混じる花びらコスモスのはな
牛小屋の裏の茱萸の木、横坐りしてゐる牛の乳ゆがみをり

 

 

一首目、土に鋤き込まれたコスモスは一般的光景としては無残さが強く出てくるかもしれない。しかしこの歌の、土に鋤き込まれたコスモスに苦痛はなく、逆にうっとりとして見える。土の黒とコスモスの鮮やかな色の対比があり、土というものの豊かさがある。この一首においては、「無残」という一般的光景は無化され、豊かさ寄りの光景として掴み直されているのである。二首目は初句二句で縦のラインを、以下で横のラインを見せていて、こちらも対比的な捉え方がされているが、牛の乳の「ゆがみ」への視線は牛の重みとそれを受ける地面の重みを言外に伝えている。単純に言ってしまえば二首ともに、豊穣だなあ、と思うのだ。

 

とはいえ、こうした作品だけが『夏野』の世界を構成しているものではなく、以下のような作品も散見される。

 

 

薄荷積む堤あかるし誰からも見られてゐない心安さに
知つた人がひとりもゐない土地なのに人に会はずに済む道を探す
大声といふそれだけで怯えたり人の話のなかばで帰る

 

 

人に対する、恐怖にも似た感情がときおり歌に籠められる。もしくは人の視線や声に過敏に反応してしまう自分自身に対する恐怖というのもあるだろう。上記三首は、それでも作品としてのやわらかさを失ってはいない。恐怖に尖ることがない。表現上で言うと一首目の「ゐない」、二首目の「なのに」、三首目の「それだけで」といった日常的な言葉選びが一首一首にやわらかさを纏わせているようだ。

 

 

かぐはしき夏草の名のそれぞれをまだ容れてゐるわれとわが脳
谷風にわれとわが額吹かれたり供物のやうに猫をかかへて
猫たちに目守られながら屈葬のかたちに眠るわれの涅槃図

 

 

一首目は、「雑草」と括られてしまう夏草のひとつひとつの名を記憶に残し、かつかぐわしいものと感受している、言うなればやわらかな主体がいる歌である。けれどもこの一首には「われとわが脳」という不器用にも思える結句が用いられる。二首目の「われとわが額」も三首目の「われの涅槃図」も、「われ」がそこはかとなくぎくしゃくとしていて硬い。先に挙げた三首よりもこちらの三首のほうに、読者としてのわたしは存在の尖りを覚えてしまう。他者の存在ではなく主体に内在する自意識の敏感が一首の背後にあり、すりきれるように痛い。「われ」という存在は、一生「われ」を持て余しながら生きていくほかにないものなのだと、『夏野』を読みながらあらためて思い知るのである。

 

 

定型に身を委ねれば幾許かわれを失ふよろこびはあり
雲と住むタワーマンション遠サイレン羽化登仙のわがこころざし

 

 

思えば、先に見た歌にあらわれていた、亡骸へ注がれる視線もここに根っこがある。亡骸はひとしく「われ」をなくしたものたちであり、主体にとってそれらの存在はもしかしたらひとつの救いになっているのかもしれない。やわらかな作品世界の基底には、頑強な「われ」がどこまでも佇んでいる気がしてならない。だからこそ、「われを失ふ」ことによろこびを見出し、「羽化登仙」をこころざしとするのではないか。

 

ついつい意味の比較的強い歌ばかり取り上げてしまったけれども、『夏野』の魅力は何でもないような場面を詠んだ作品にもたくさん詰まっている。

 

 

熟れ過ぎた桑の実を摘む潰さぬやうに 潰してしまふ
沼に湧く菱を覗いてゐるときもわれを出で入る呼気と吸気は

 

 

一首目はもはや作中の息づかいだけで読ませられる歌である。構造的には三句目が欠落しているととることもできるけれども、一首まるごとでひとつの息づかいとして読みたい。桑の実を摘む指先のどうにもならなさ。指先と感情とのはるかな距離感に恍惚とする。二首目。菱を覗きながら、自身のうちがわをも覗いている。つまり一首における感受の幅が広い。実際のことなのに、何かしら不思議な感覚を読み手に起こさせるのは、その感受の幅広さゆえだろう。

 

『夏野』はモチーフの豊富な歌集ではない。が、ある程度限られたモチーフを幾度も塗り重ねながら生み出された世界には読者を納得させるだけの厚みがある。ゆっくりと味わうにふさわしい歌集であった。