演技と批評―短歌の言葉の位相

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 短歌は日本語による表現領域のなかでどのような場所を占めてきたのだろうか。

 

 大風呂敷を拡げるようで恐縮だが、私にとって短歌について語るということは、そういった問題意識と無関係な営みではない。日々用い、そして遊ぶ言語生活のなかで、どこから短歌というジャンルの磁場が生起し、あるいは消滅するのか。そのあわいを、言ってみれば〈辺縁〉を探りあてようとして、この雑文を連ねてきたように思う。どれだけ短歌が口語化したとしても、三十一音という定型のなかに言葉を落としこむという「不自然」な作業を引きうけることなく、短歌を作ることはできない。この言語活動には特別な感じ、とは言っても特権的という意味ではさらさらなく、ある種の気恥ずかしさや緊張感がつねにつきまとう。その出所を明らかにしたいという願望は、実作者の短歌論を導く主要な動機のひとつなのではないだろうか。

 

 渡部泰明の『和歌とは何か』は国文学者による和歌論だが、そんな関心にもまっすぐに訴えかけてくる好著である(*1)。誰よりも和歌を読みなれた専門家であるにもかかわらず、渡部は古典和歌に接するときの「ピンと来ない」感じ、「敬して遠ざけるような反応」を括弧に入れることなく、むしろこの感触を正面から見据えることで、標題に掲げた問いに答えるための出発点とする。渡部は和歌的修辞(掛詞や縁語その他)について、次のように述べる。

 

レトリックは、普段は余計物だが、ある特別な行為とともにある時、意味を発するのではないだろうか、と考えてみるのである。もしそうなら、次には「特別な行為」が問題になるが、私はそれを「儀礼的空間」と呼ぶべき場での行為、つまり儀礼的行為だと捉えてみた。そして、レトリックには、儀礼的空間を呼び起こす働きがあるのではないか、とまとめてみた。/儀礼的空間とは、複数の人間が、ある区切られた場所の中で、何らかのルールや約束事を共有しながら、特定の役割意識に基づいて行動する空間である。(略)そこは、役割意識に満ちた行為、すなわち演技に満たされた空間である。

 

 和歌が「言葉でする演技」である以上、日常からわずかに遊離することを免れない。言いかえれば、それは生身の私から切断された行為である。だが演技は、平常なされる言語や所作に比べれば異質な、誇張や歪みを伴っているとしても、舞台や祭式のように特別に設(しつら)えられた空間では意味とリアリティをいきいきと発動させることができる。だとすれば、和歌的修辞の回りくどさ(と一見したところ思えるもの)は、「余計物」なのではなく、むしろ必然性に裏打ちされたものと言うことができる。ただし、言葉の〈価値〉を担保しているものは、その意味内容ではない。伝達内容そのものではなく、伝達の形態がメッセージの然るべき受けとめ方を指示し、そうすることでレトリックに生命を吹きこむのである。渡部の言葉をもう一つ引いておこう。「和歌の言葉の工夫とは、自分を社会化する努力の跡であり、社会化する過程を露呈させるものなのだ。」

 
 近代短歌はそういう「演技」性を否定したではないか、和歌の修辞術をどれだけふり返っても短歌の本質とは無縁ではないかという異論が聞こえてきそうだが、ここではそれについて詳述するゆとりはない。近代以後の短歌といえども、メッセージの効率的伝達それのみを目的としているわけではないことは、これまでに何度も触れてきたとおりである。近代以後の和歌-短歌の言葉の様態の変容を認める一方で、散文表現には還元しえない要素を見極めたい、主題はそこにあると言えば十分だろう。

 
 これに関連して、やはり舞台芸術との比較をつうじて、短歌の言葉の位相に迫った試みとして、森井マスミの議論にも言及しておこう(*2)。森井は穂村弘作品の分析や演出家・大岡淳による演劇批評を踏まえて、口語化が意味偏重を促し、散文的理解を優先させるあまりに、作品を韻文として享受する機会を疎遠にさせる傾向をもつことを指摘する。そのうえで森井は、口語の可能性を掘りさげることでこのディレンマを克服しようとする演劇の試みを紹介する一方、次の点に短歌と演劇の分岐点を見出す。

 

しかし音数律の規制が厳しい短歌では、たとえ口語調であっても、文語律がすべりこんでくる。意味と韻律のせめぎあいなくして、短歌は成立しない。

 

 注意しなければならないのは、森井がこの言葉によって短歌定型の息詰まるような不自由さや責め具のような拘束性を強調しているわけではないという点にある。真意はまさに逆であり、ジャンルの可能性と意義をそこに見出そうとしているのである。別の評論で、森井はこう述べる(*3)。

 

むしろ短歌は、言葉で世界を裁断する際に、形式との葛藤を経なければならないのであり、そのことは短歌が本質において、言葉の他者性を最も認識しうる〈批評の形式〉であることを示している。

 

 人は世界のなかに、摩擦なくくるまれているわけではない。人は他者との関係を、自明視することはできない。言葉をもつということは、関係がすでに断たれているということを前提とするものであり、だからこそ言葉によって想像力を喚起させつつ他者に働きかけ、翻って世界がいかなるものかをおのれに問いかえさなければならない。定型詩の「効用」(とあえて言おう)は、まさにその不自然さのおかげで、言葉が本来もっている、断絶と再構築のダイナミズムをそのつど自覚するよう作り手に迫る点にある。すなわち形式を媒(なかだち)とすることで、人は他者や世界について認識を更新する機会―「批評」とはそういうことだろう―を得ることができる。無論、このことにとって口語か文語かという二項対立は、まったく意味をもたない。あるいはまやかしの対立軸にすぎない。重要なことは、作品が言葉の他者性との葛藤をどれだけ深く経験しているか、という点にある―。

 
 渡部は和歌の言葉について「社会化の過程」と言い、森井は短歌の本質を「批評の形式」として定立する。ここで二人の所論が、和歌-短歌史における別々の現象について触れながら、しかしたがいに密接していることに留意しておきたい。角度は異なるものの、コミュニケーションの原型的なありように遡及することで、いずれも短歌の言葉の特性を浮き彫りにしているように思われる。

 

 
(*1)岩波新書、二〇〇九年。
(*2)「口語と韻律」『不可解な殺意―短歌定型という可能性』ながらみ書房、二〇〇八年。
(*3)「定型と批評―第二芸術論から遠く離れて」同上。