信仰を〈読む〉

島田幸典さんの跡をひきつぎ、一年間書かせていただきます。気楽な文章を……と思いながら、最初からすこし重くなりました。書き込み方法に慣れるまで、いましばらく不体裁なところもあるものと思いますがご容赦ください。

「短歌往来」1月号に掲載された、岩井謙一「川野里子『幻想の重量』への疑問」に、少し驚きながら、いくらかの部分については、私の感じていた疑問とも重なるので、なるほどと思いながら読む。

葛原妙子のよい読者ではない私が言っても重みが無いが、川野の『幻想の重量―葛原妙子の戦後短歌』(本阿弥書店)は、力作であり必読書であろう。前衛短歌の随伴者として名前が挙がるが、ほんとうにそうなのか。そうだとして塚本邦雄との距離はどうなのか。そういったことを戦中・戦後という時代背景を押さえながら評伝的にたどり、当時の「潮音」誌上の作品や文章、そしてライヴァルと目される倉地與年子らの作品と比較しながら立体的に論じてゆくのは読み応えがあった。

さて、岩井の批判は、主として川野のキリスト教理解にある。私もまた『幻想の重量』を読みながら、そのキリスト教についての議論に、どうも落ち着かない思いを抱えていたので、岩井の文章を手掛かりに、少し考えてみたいと思う。

キリスト教的な内容の作品が数多くあるけれど、受洗したのは死の間際である。そのことをどのように理解するのかというのがポイントになるだろうか。川野は「信者としてではなく、むしろ神を呪うものとしてキリスト教の傍らにありつづけた」とする。いっぽう、岩井は「葛原妙子はキリスト教の信仰者であったが、死の寸前まで信者ではなかった」と書く。
岩井の文章は、いささかキリスト教史や教義に立ち入って、もっともだと思うところもあるのだが、これは拠って立つところの信仰的な立場の表明であろう。そのことについては、稿をあらためるが、作品の読解にかかわるところについて、コメントしておこう。

例えばこういう一節がある。

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信仰を理解していない川野の葛原妙子の歌に対する読みも疑問点が多々ある。川野は葛原妙子を積極的な無神論者と定義した。

聖水とパンと燃えゐるらふそくとわれのうちなる小さき聖壇  『飛行』

市に嘆くキリストなれば箒なす大き素足に祈りたまへり    『鷹の井戸』

川野は右の二首をどのように読むのであろうか。一首目は自らの心の中にイエスに捧げる聖壇があるという、あきらかに信仰告白の歌である。二首目はキリストに対して祈ると明確に詠んでいる。しかも素足へ祈るという低い位置からの祈りなのである。
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一首めはそうかもしれない。しかし二首めはどうか。「祈りたまへり」である。これは〈私は〉ではないだろう。『鷹の井戸』のテキストが手許にない状態で言うので間違っているかもしれないが、主体はキリストであると読むのがまず順当で、あるいは嘆くキリストの素足に対して祈る誰かであろう。
作者の視点も低いが、いきなり作者の祈りと言うのは無理がある。文脈からそう読み取れるというのであれば、もう少し丁寧に書いてもらうべきところかもしれない。そのあたりがどうも粗っぽいようで、十分に説得されないのだ。
いっぽう、川野のほうも、要所は推定の留保がついているものの、岩井の批判を呼ぶようなところがある。

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十字架に頭(かしら)垂れたるキリストは黒き木の葉のごとく掛かりぬ 『縄文』

キリストは青の夜の人 種(しゆ)を遺さざる青の変化(へんげ)者  『原牛』

ありがてぬ甘さもて恋ふキリストは十字架にして酢を含みたり   『葡萄木立』

川野は右の三首を引き、「これらの歌はことごとく象徴的なイエスの像を外れている。神の子ではなく、私たち自身よりも救われ難いひ弱な存在である。」と書く。川野は十字架に対して思い違いをしている。十字架上のイエスが弱く無惨で痛みに満ちたものであればあるほど、罪深き人間は救われるのである。その贖いの象徴としてイエスは十字架上では限りなく弱くあらねばならなかったのである。
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この部分は概ね私も感じたことである。むしろ「象徴的なイエスの像」そのものではないかとも思う。このパラドックスこそがキリスト教である。この三首のなかで、非キリスト教的なものがあるとすれば二首目だろう。「変化者」という発想は信仰のなかからは、おそらく出てこない。

もうひとつ。岩井が「日本の歴史を見て一度たりともキリスト教が強制された歴史はない」ということについて。

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太平洋戦争の敗戦後に占領軍による強力なキリスト教宣教活動が行なわれたが、結局キリスト教信徒の数は四十万人程度にとどまっている。そのような日本において非常な少数者であるキリスト教信仰を拒み続けたという、川野の認識は根本から間違っている。
———— 引用ここまで ————-

歴史的背景の事実はそのとおりだろう。だが、どうだろう。家族のなかに新しい信仰を選び取った者がいるときに、その家族は動揺しないかどうか(葛原のパターンである)。キリスト教に限らないが、ある文化や信仰を堅く持つ一族のなかに、結婚した女性が加わるとき、強制力を感じないかどうか。学芸の師弟関係や職場の上司―部下の関係のなかで有形無形の圧力はなかったか。「親切なおばさん(おじさん)」に、あれこれ世話を焼かれて、拒めなくなってしまったということはないか。
自ら選び取った信仰ですら、世界の普遍的な価値はこれであるという、ある種の強制力があって、それに抵抗を感じながらも、受洗する者は「命がけのジャンプ」をしたのではなかったか(ファッションで流れるのが多数派であるかもしれないが)。

鑑賞の場面において、「信仰者」と断定すれば、アンチ・キリスト的な作品をよく読めないことになるし、「信仰を拒み続けた」と断定すれば、これはまたキリスト(あるいは、ナザレのイエス)に思いを寄せる作品などが読めなくなる。
思うに、どう断定しても違和感を感じる人は出てくる。信仰とはどういうものかというのも、それぞれの教団で、個々人の内面で違う。信者というのは帰依した人かといえばそういうものでもなくて、つねに揺れ動くから教団に拠るのである。
図式的に言い表したり理解したくなるものだが、生身の人間は、もっと揺れ動くものだろう。その部分をこそ読み味わいたいと思うのである。