ぎこちなく

高島裕の散文集『廃虚からの祈り』(北冬舎)が出たので早速読む。評論集ではなく、エッセイ集でもなく、「散文集」だという。詩歌は、そして短歌はかくあるべしという強い希求につらぬかれた一冊である。希求というよりも、断言が多いかもしれない。

高島の書くことについては、本書のなかの「過去からの光」が発表されたときにも書いたことがある(※1)。熱意に打たれながら、その意図する方向が、つまらない復古主義に陥るのではないかと危ぶみながら読んだことであった。そしてその後も、あれこれ批判されることがありながらも確信をもって発言を続けているのを、(高島が古田足日『おしいれのぼうけん』を引用していることにならって言えば)「えらいな」と思ったことであった。
一冊としてまとまったものを読むときに、あいかわらず危うい感じは拭えないところがあるものの、いくつかの回想記的エッセイなどをまじえて読むと、結論はともかくとして納得するところがある。高島の論考が書かれているというよりも、高島という人間がそこにいるのだ。そのことを私は喜ぶ。

それぞれ、まだ短歌にかかわっていなかった頃のことであるが、ある時期、高島と私はお互い知らぬまま近いところにいた。

1980年代の後半、京都での学生生活は数年の差ががあるものの、こちらは卒業後も大学近辺に住んで、学生時代のつきあいは切れていなかった。高島は一時期の学生運動とのかかわりを、深く悔い「わが過ち」として書いているが、おそらくそのあたりで、私とも共通の知人が何人かいるだろう。

80年代の京都というのは、まだ70年代のざわめきを残していた。もとより、ざわついていたのはごく一部のことであり、90年代以降も、かたちを変えたざわめきはあったらしいと、これは吉川宏志の書いていることなどから知れるが、80年代のこととして言えば「ガラパゴス」などと揶揄されつつ、寮の管理強化であるとか、キャンパスの移転などにかかわる問題のために、散発的にバリケードが築かれたりすることもあったのだ。政治課題としては、高島も触れているように、韓国の民主化運動への連帯であるとか、天皇の代替わりに際して天皇制をどう考えるかというようなことが問題になっていた。
呪文にすぎないことを唱えたり(※2)、笑止なことも含めて、いろいろなことがあったわけだが、高島はそれを「若気の至り」とする。ああ、そう思う人もいるのだろう……と思う。思いながらも、それは違うなあとも感じるのだ。
そもそも大学に入る前から身構えていた。寮に住んでいたから、いつも身辺慌しく出入りがあった。しばしば「お前はどうするのか」と問い詰められる。相反する立場それぞれの話を聞きながら、あれこれ疑いながら迷いながら、半身でかかわったというのが実情かもしれない。徹底しなかった分、完全に折れるということもなかった。だから負い目を感じつつ、「お前はどうするのか」という問いを、今も保っているようなところがある。つまり同じところをうろうろとしていると見ることもできよう。

と、そんなふうに、高島の書いたものを読んでいると、つい私のほうも回想および反省モードに引き寄せられるのだ。
そしてその後、いくつもの分岐点を別の方向に歩んできた。あるいは私は分岐点を行きつ戻りつしているあいだに、高島は遠くまで行ってしまった。そんな感じがするのだ。

私は反省する。しかし反省することと屈服することは違う。私は伝統を尊重する。しかし尊重し学び、自らの滋養とすることは、伝統に帰順することとは違う。そんなふうに思っている。
ただ、しばしばそれは混同される。反省することが屈服すことにつながり、それゆえ反省すること自体が有害なことと退けられる。私には、それは大人のすることとは思えないのだが、冷静に反省するというのは、そもそも人間には難しいことなのか。
いっぽう、伝統に関しては、必ずしも理詰めではない。身体性をもったものであり、どっぷりと浸からないとわからない部分もあるだろう。しかし、どっぷり浸かるだけで良いのかというと、私の身体は素直には納得しない。

高島はこんなふうに書く。

———— 引用ここから ————-
短歌定型の力は、民族の歴史的連続性によって支へられてゐる。だから、短歌定型の力によって救済されることの意味は、民族の歴史的連続性に抱き取られることによつて、その安らぎとなつかしさのなかで、日本人としての自分を感じ、日本人としての輪郭を獲得するといふことなのだ。それは、近代的に孤立した自我とはまったく異質な〈自分〉である。戦後的に無国籍で無色透明な〈人間〉ともまったく異質な〈自分〉である。
いま語つたことは、かうあらねばならぬといふ当為ではなく、かうあつてしまふといふ自然である。だから短歌定型を無色透明な詩の型と見做して作歌することも、短歌定型を利用してどのやうな言語実験を行ふことも、非難するにはあたらない。好きにやればよろしい。ただ、短歌が短歌である限り、さうした試みのすべては、いづれ、民族の歴史的連続性に照らして評価され、審判されることになる。
———— 引用ここまで ————-

ほんとうに自然なのか。ほんとうに「安らぎ」を感じられるものなのか。

たとえば高島が愛情を込めて書く大伴家持の作品。

・ うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば

は、近代的な誤解も含むかもしれないが、すっと心に入ってくる。しかし、

・ 新(あたら)しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)

になると、ややハードルが上がる。高島の解説を読みながら、なるほど祈りのこもった作品と理解するが、これを繰り返し唱えて、まっすぐに感じられるようになるだろうか。とりあえず、下句がどうも落ち着かないのだが、そんなところまで含めて私の言語感覚を塗り替える必要があるのか。

あるいは、私にも高島のような「ふるさと」があれば同じように感じることができるのだろうか。父祖の地と呼びうるところで育ったならば、伝統的なものに、「安らぎとなつかしさ」を感じることがあるのだろうか。
環境決定論をとりたくはないが、「西部劇の街」のように開かれ地方都市に、さまざまな文化を持ち寄って流れ着いた両親のもとに生まれ、戦後の空気の中にどっぷりと漬かって育った者には、土地とか血縁というものの連続性は自明ではない。

高島の文章は、そもそも論証しようとすること自体を拒否しているようなところがあって、取りつく島も無いのだが、おそらく「かうあつてしまふ」ということを論理だてて説明するのは困難なことなのだろう。
私も「利用」とか「言語実験」ということには距離をとる者である。詩型を「無色透明」とは思わない。日々、工夫し実験のようなこともするけれど、自然に出てくる言葉でなければ意味がない。理屈を捏ね、試行錯誤するのは、自分のなかから出てくる表現を見つけ出すための営為であると思っている。その結果が伝統的なものと一致することもあるし、そうならないこともある。

そしてまた、伝統の中にもいくつも断層はあるのだ。残らないものも多々ある。たしかに、歴史的に「審判されることになる」のだろうけれど、それはそれてとして、勝利者が正しいという話になるのであれば、それは文芸ではなかろう。永く省みられなかったものに突如として光が当てられることも稀ではない。そのように「再審請求」を求める作品、そして歌人は、まだたくさん埋もれているだろうと思うのだ。

高島はまたこんなふうにも言う。

———— 引用ここから ————-
民族、日本人という言葉にたいして、このグローバルな時代に、あまりに視野が狭いと笑ふ人がゐるかもしれない。だが、さう言ふあなたは一体誰なのか? 世界市民か? 透明人類か? 自分は日本人であるといふ事実から目をそむけ、民族的アイデンティティーに無自覚なまま、海月(くらげ)のやうにふらふらと海外へ漂ひ出す人は、世界の笑ひ者になるだらう。私は、人間である前に、日本人である。
———— 引用ここまで ————-

こんなふうに「日本人である」と疑いなく言える人は、たぶんたくさんいるのだろう。多数派なのかもしれない。それを虚構だなどと言うつもりはない。

だが、文化的には明らかに、そして濃淡のさまざまを含めて言えば血統的にも、私たちはハイブリッド(雑種)であることを余儀なくされているというのも一方の現実である。
もうひとつ言えば、「世界の笑ひ者」にならないように、慌てて古典を勉強したりするというのだとすれば、これはどこか不自然である。もちろん高島もそんなことのために伝統に帰順せよと言っているわけではないのだろう。

私などはむしろ、コスモポリタン(世界市民)であるほかはないと思っている。苦々しく思っている。そしてたまたま現代日本語を母語として育ち、国籍は日本である。それゆえ、選び取るものとして、他のどれでもなかったのである。私の自然はそういうことになる。

私は私なりに、ぎこちなく古典を読み味わうということを続けるだろう。私は私の祈りを、ぎこちなく短歌定型の言葉に託すだろう。

高島の言挙げを遠く聞きつつ、そんなふうに思うのだ。

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※1
「短歌」2005年9月号,角川書店

※2
http://www.sunagoya.com/tanka/?p=2089