真中 朋久


朗読のリズム

短歌のリズムや拍子について言えば、日本語4拍子説というのがあって、その枠で七五調を云々する真面目な書物が何冊も出た。
たとえば別宮貞徳『日本語のリズム』(ちくま学芸文庫,2005/講談社現代新書,1977)がよく売れた本であるけれど、坂野信彦(『七五調の謎をとく―日本語リズム原論』大修館書店,1996その他)に言わせれば、そんなものは、もっと前から知られていたことであるという。菅谷規矩雄『詩的リズム』(大和書房,1975)その他、より精緻に論じたものなどもさまざまあり、数年前(2007年4月~)に「短歌研究」で連載された小池光の論考も、それらを踏まえたものであった。

いちばん素朴なパターンは次のようなかたちだろうか。♪が5・7・5・7・7ある間に、無音の拍を・印で示した。

♪♪♪♪♪・・・♪♪♪♪♪♪♪・♪♪♪♪♪・・・♪♪♪♪♪♪♪・♪♪♪♪♪♪♪・

なるほど、短歌作品を朗読をしようとすると、こんなリズムで読む人が多い。百人一首なども「秋の田のぉーっ」と大きく伸ばして朗詠する。
岡井隆『現代短歌入門』(講談社学術文庫,1997/もとは角川「短歌」連載 1961~1963)の記述を借りれば「歌はこれを読むとき、第一句のあとで休止を置き、二・三句をつづけて第三句のあとでまた休止を置く。経験上、そういうよみ方をするのが多いが、これを分析してみると、五拍のあとに必ず休止を置いています」という言い方になる。

これがつまり、どういうことになるかというと、こんなふうな四拍子または5音句のあとに休止を置く読み方は、必然的に初句または3句切れになってしまうのである。

どうもこのあたり実作者として納得しがたいことがある。二句切れとしてはっきり切って読んでほしいときもあるし、四句まで通して欲しい場合もある。固定した読み方をされるのは、なにか窮屈な感じがする。
思うに、啄木の3行書きも、迢空の句読点も、そして塚本邦雄の句割れ/句またがりも、通俗的な朗詠あるいは3句切れ固定スタイルによる朗読の拒否ではなかったか。

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さきに引用した岡井隆の記述は、当時、結社誌「未来」を含めて、破調の歌が多くなっていることを注記として述べた部分であり、塚本邦雄の初句七音を例に上げて「七拍化する理由」について軽く試論しているところである。初句のあとの休止「虚の拍」を埋めることによって「第一句と第二句とを接続して、上句を一気によみ下すことによってある下降力―速度感を得ようとすることは、考えられる」としている。
なるほど、埋めることによって接続される。ただ、埋めれば埋めたで初句に重みが生じて、速度感以外の印象も出て来るかもしれない。
しかし、さまざまに分析を加え、短歌定型の議論をしても、朗読方法を読者に強制することはできない。なんとなく、4拍子的に、5音句のあとを長い休止を置きながら読んでいて、身に付いた読み方が自然だと思っている。句割れ・句またがり、破調の歌も、「自然な」短歌定型の5・7・5・7・7を意識した読み方をして、ぎくしゃくと読む。句読点があっても、「自然な」読み方で読んでしまう。

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岡井『現代短歌入門』の別のところには、こんなふうに書いてある。

——引用ここから——
わたしたちは、こういう意地の悪い歌を読むとき、ゆっくりと、五・七・五……の拍数の切れ目で人工的に――というには、実際にこれらの詩の持つ、自然と人工の二つの音数律とは無関係に息をついて読みます。そして、これらの詩の持つ、自然と人工の二つの音数律の懸隔に嘆息するのです。
——引用ここまで——

この部分は、とりわけゴツゴツと、31音というだけの制約でつくられた作品について書かれていることであるけれど、あえてそれを定型の枠組みに入れてみると言っている。そうしながら意味のつらなりや言葉の流れをつかまえてゆくのだろう。それが面白いという人もいるだろうし、実際そういう過程を経て見えてくることはある。
だが、それは理屈というものであるかもしれない。そのことに作品の魅力を云々するよりは、「嘆息する」ということなのだ。よく知られた、愛唱している作品まで、わざわざそうするものではない、と私は思う。

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日本語として、短歌として自然でないのかもしれないが、私の朗読方法について、ひとつの試論として提示してみることにする。
実演できればよいのだが、言葉で説明すると次のような方法になる。

・休止は置かないつもりで読む。1音節に満たない程度の休止はあり得る。
・句切れなどの必要があれば大きく休止する。句読点や一字あけも尊重して休止する。
・各音節の速さは変えないつもりで読む(等時拍)。勢いで緩急を生じることはある。
・定型の句切れや文節は強弱や高低のアクセントで示す。

こんなことを考えながら読むのは、これまた窮屈かもしれないが、こんな読みかたをするとどうなるか。4つめの項目「アクセント」は、全身を軽く揺らしながら発声するとよいと思う。定型(5・7・5・7・7)と、意味の句切れの両方を、アクセントで越えてゆこうというのがミソでもある。
こうして読むのを、すこしペースを上げると、5音または7音のまとまりが、一つの大きな拍として感じられてくるのではないだろうか。はなはだ感覚的な表現で恐縮だが、5音は浅い拍、7音は深い拍とも感じられるのではないかと思う。
小池光は「どのような定型であっても、必ず五音句と七音句を同一の時間幅で読む。(略)五七五七七である短歌は緩急緩急急という読み方が指定されているのである。定型は五とか七とかの数字が本質なのではなく、テンポの緩急が本質なのだ」と、いささか大胆なことを書いていたが、それに似て少し違う。小池に倣って言えば、私のほうは時間幅ではなく、音数のほうに基本を置いて「浅深浅深深」という言い方になろうか。

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少し違う観点になるが、有名すぎる作品を例としてとりあげてみる。

・革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ  『水葬物語』

休止を置かず等時拍で読んでゆく。この場合、上句のほうは、従来からの読み方とそう違わないが、句割れ・句またがりがある部分の「凭り」と「かかられて」の両方に強いアクセントがかかる。ドライブ感が出て来る。ポピュラー音楽の言葉でいうと「グルーブ感」などという定義しにくい概念もあるらしいが、そういうものである。
下句は「すこしづつ液化/してゆくピアノ」と読むのが普通だろうけれど、等時拍かつ無休止を前提として読んでゆくと、「すこしづつ/液化してゆく/ピアノ」の3つのまとまりが目立ってくる。これら3つのパートの先頭にしっかりとアクセントを立てて読でみる。先頭にアクセントというよりも、何度も読んでいると、それぞれがひとつのまとまりとして、楽譜なら「スラー」をつけたひと山のものになってゆく。
じっさい、塚本邦雄には下句が3パート(あえて3句といっても言い)になるものが少なくない。そういうものは、はじめから3パートとして読む。

・煮られゐる鷄の心臓いきいきとむらさきに無名詩人の忌日  『日本人靈歌』
・こゑ嗄れて晩夏病みゐるわが部屋にひわひわと繪葉書の吊橋

それぞれ「むらさきに/無名詩人の/忌日」「ひわひわと/繪葉書の/吊橋」のように、3つのパートとしてアクセントを置いて読んでみるのである。

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思いつきで言えば、このあたり、タンゴかなにかラテン系の強いアクセントの立つ音楽のイメージに近い。全体は四拍子なのだが、そこに3拍子が乗ってくる。タツツタツツスタツツ……というようなリズムである。

休拍を置かない。そのことによって、塚本邦雄のような作品は、もっとダイナミックに、躍動感あふれる朗読ができるはずだと思う。