「文体」をめぐって

「次の筆者は、また違った観点で書いてくださるでしょう」と真中さんが書かれていたのを読んでいて、「次回以降は誰が担当なんだろう?」と思って眺めてたら、自分に連絡が来てしまって、ずいぶん慌てた大井です。はい。今年一年、宜しくお願いします。

という挨拶文から書き始めましたが、これは、僕が親しい友人へのメールやブログ(今はもうないです)で使っている文体です。評論や時評を書く時の文体と違って、少し砕けてます。隙のある書き方なので、いろいろな誤解が生じてしまうかもですが、これで始めたので、今回はこれで通しますね。
こんな「文体」の話から始めたのは、他でもないです。年末から年始にかけて読んだ何冊かの雑誌・本から、「文体の創出」ということについて、ちょっと考えたからです。
「短歌研究」2011年1月号の時評に斉藤斎藤さんが、次のようなことを書いてました。

———-引用始まり———-
口語で歌をつくり始めた初心者が、すこし本気を出せば気づくことだが、口語だけで短歌をつくりつづけるのは、実際とてもむずかしい。文法を勉強しさえすれば、文語の助詞・助動詞を取り入れたほうが作歌は容易である。完全口語をつらぬくには特殊な動機が必要であり、すなおな自己表現をめざしている人は早晩、文語を取り入れるようになる。(略)
われわれの精神が口語化しているのであれば、われわれの文体も口語化すべきなのである。(略)口語で歌を詠むべきである、べきであるのに口語に限界を感じ、深いところの必要から文語を選びとる歌人がおのずから生まれて、はじめて口語化の流れが止まる。口語化の流れを止めるために、われわれは口語で歌を詠むべきである(註1)。
———-引用終わり———-

確かに。一読して、そう、うなずきました。現代の口語には、文語の助詞・助動詞にかなうような表現力が乏しいと感じるし、わが身を振り返っても、完全口語の歌を書くときには、それなりの意図をもって書いてるので。口語にはない雰囲気と表現力を求めて文語へ向かっていくということもよくわかる。「嗚呼 くやしけり くやしけり」と歌う歌手もいるけれど、おそらく彼女にとって必要だったのは「くやしかりけり」ではなくて、文語のような雰囲気の「くやしけり」だったんだろう。
けれど、うなずきながら、なんかちょっと違う気もするなぁ、とも同時に感じる。そして斉藤さんのこの文章、どっかで似たようなもの読んだよなぁ、と思って本をひっくり返したら、次のようなものがありました。

———-引用始まり———-
口語としてはとくに貧困な助動詞をはじめ、今日に生きていて、親近感をもっている古語も混用して、口語的発想をとるところにいるのが、定型短歌の現状であるが、いささかの古語混用が文学表現としてマイナスにどの程度なっているであろうか。
純粋に口語のみを用いて成功することは、極めて困難なことであり、またそこにこだわるために破調となり、自由律短歌へ赴くのは、抒情詩としての定型の長所を捨てることになり、むしろマイナスになるのではないかと思われる。ただし、短歌を揚棄して新しい短詩となる場合には、五七も三十一音もくずれて、問題は別のものとなるのである(註2)。
———-引用終わり———-

これは「日本文学協会一九五二年度大会報告」という副題が付けられた『日本文学の伝統と創造』(岩波書店)に収められている文章です。書いたのは窪田章一郎さん。六十年程も前に書かれた小論だけれど、いま僕らが考えている問題意識とあまり違わないことにびっくりです。「だから窪田章一郎はスゴイ」とか、「斉藤さんの論も同じたぐいのものだ」とかいうことを短絡的に言いたいんではないんです。なので、続いて引用しますね。

———-引用始まり———-
いま非常に読まれている作家は年代順に夏目漱石、宮沢賢治、太宰治と三つ並べられます。この三者に共通しているのは、話し言葉に近い文章です。とくに漱石の『坊っちゃん』や『草枕』がそうですが、ほとんど会話調です。つまりだれかにしゃべるように書いている。
じゃあ、しゃべり言葉を字に書けばいいかというと、そうじゃないのですね。いま若い人向けの雑誌などに、会話体、しゃべっているような調子で書いてあるものが載っています。これらには傑作もあるでしょうが、概してつまらない。しゃべり言葉をただ原稿用紙に書いていても、文体は新しくならない。
漱石も賢治も太宰治も、あくまでも書き言葉の一種なのです。その根っこにあるのは、いかに話し言葉を書き言葉に移しかえて、なお、話し言葉のもっている自由さおもしろさを活かすかという、たいへんな大事業なのです(註3)。
———-引用終わり———-

これは、井上ひさしさんが1989年5月3日に行った講演の記録の中にあるものです。井上さんが語ってるのは、短歌のことでなく、小説の文体について。けれど口語・文語・古語という言葉で語られる「短歌における文体」の問題と同じものが、「話し言葉・書き言葉」のなかにあるような気がする。
新しい小説を書くために、小説家達が「書き言葉」を工夫してきた。それは今もそうでしょう。成功・失敗を問わず、文藝雑誌には工夫された文体の小説がたくさん載ってます。この文章で、井上さんは「話し言葉のもっている自由さおもしろさを活かす」という点について語ってるけれど、もともと短歌は形式に縛られる不自由さを選んでこその詩。自由に書いて「五七も三十一音もくずれて、問題は別のもの」とするのであれば、短歌じゃなくなる。けれど、「すこし本気を出」した短歌作者は、話し言葉がもってる《いま・この》の感覚を、《いま・この》として短歌のなかに描きこんでいきたいという思いを、小説家と同じく、潜在的にもってるんじゃないだろうか。あるいは、逆の欲求もあるかもしれない。作品を読んだ人が思い描くだろう《いま・この》を想定して、それが導きだされるように言葉を配置しておきたい。そしてその欲求は《いま・この》を固定して、同時に固定された言葉から《いま・この》を出現させたいということかもしれない(註4)。だけれどもまた、「しゃべり言葉をただ原稿用紙に書いていても、文体は新しくならない」という井上さんの言葉を借りれば、「しゃべり言葉がただ三十一音になっていても短歌の新しい文体にはならない」というところに「口語化の流れが止まる」原因と問題とがあるんじゃないか。。。。。
こうした引用文たちの合成・変容が、僕の頭のなかに渦巻いてます。
斉藤さんが書いた「口語・文語」や、窪田さんが言う「口語・古語」を、井上さんの語る「話し言葉・書き言葉」に置き換えると、少しはっきりするかもしれません。
日常の僕らは「話し言葉」のなかに生きている。書かれた言葉ではない「音」(手話の場合には「動き」になりますか)の世界に生きている。それが何かを文字で伝えようとする場合には、書き言葉を用いなければならなくなる。音の高低や、動きの強弱は消えてしまう。その時、どのような言葉を選択する必要があるのか。話し言葉に近い口語文体で書くのか、日常では使わない・畏まった古語混じりの文体で書くのか。或いは、新しい独自の文体を創出しなければ伝わらないものなのか。

そう。斉藤さんの文章を読んで、肯きながら、ちょっと違うかも、と感じた部分がここ。

「口語で歌を詠むべきである、べきであるのに口語に限界を感じ、深いところの必要から文語を選びとる歌人がおのずから生まれて、はじめて口語化の流れが止まる。」

確かに。けれど、口語化の流れが止まった時に選ばれる「文語」ってのは、単に今まであった「文語」なんだろうか。選びとられてるのは新しい「文体」なんじゃないんだろうか。成功してるか失敗してるかは別としても。

おそらく、口語化が問題になっている時に「いや、今は文語派も増えてきてます」ってのは、あんまり慰めにならない。むしろ擬古的であるぶん、衰退・保守化だよ、と言われかねないものかもしれないし。古典に学ぶことすなわち衰退だ、なんていうヤツラは(居ないと思うけど)、放っておいても問題ないだろうけど、表現において無批判に既存のものに回帰するのは、無批判に話し言葉で短歌を作ってしまうのと同じに、やっぱり問題なんじゃないんだろうか。いや、なにも「新しい助詞・助動詞を生み出せ」なんてことを言ってるわけじゃなくてね、当然ながら。口語体の書き言葉で書くことに感じる限界ってのは、「新しい短歌のための新しい書き言葉」を生むための苦悩で、「深いところの必要」っていうのは、文体創出の始まりなんじゃないんだろうか、と。

だから、また、こうも言えるかもしれない。
短歌作品の口語化が問題じゃなくて、文語・古語への回帰がただそれ自体として問題なのでもなくて、現在を表現するに見合った文体が出現していないこと、そして、そうした文体の創出が求められているのかあるいは短歌作者が無自覚のまま「文体」の問題を放置しているかもしれないのかがわからないままで話し言葉が取り入れられていることこそが、ホントの問題で、そしてそれはこの60年来、つまりは戦後ずっと続いてるし、今もまだその実験と検証の途上なんだ。と。

けれども、こうしてごちゃごちゃと書き出した新しくて古いまんまの問題は、その止揚方法が個別の表現者・実作者に、結局は、僕やあなたの問題として、孤独のなかで解決していかなきゃいけないものとしてある。
それは「時代」や「集団」において語られるものじゃなくて、あくまでも「作者」の「作品」について語られるものになるんであって、新しい文体の指標として語られる作品が待たれているってことなんだろう。

斉藤さんの時評に触発されて考えたことを書いたつもりだったんですが、ずいぶんカラんだ感じになっちゃいましたね。すんません。

まあ。こんな感じで。

と、書いてきましたが、この文体、ブログやメールの短文の場面で使うのは馴れてましたが、これで論じるってのは、案外ツライです。ホントは橋本治さんの『言文一致体の誕生』(朝日新聞出版)にも触れたいと思っていたんだけれど、(ブラウザで文書読むには)長くなりすぎるのと、締め切りがあるのとで、今回のこの話題はこの辺で。
なんていう言い訳なんかは、この文体のほうが良いかもです。
次回以降? そうですね。普通の評論文章の文体に戻しましょうか。

(註1)「短歌研究」2011年1月号短歌時評「口語化の流れを止めるために」斉藤斎藤(短歌研究社)
(註2)『日本文学の伝統と創造』―日本文学協会1952年度大会報告「短歌」窪田章一郎(岩波書店)
(註3)『この人から受け継ぐもの』井上ひさし(岩波書店)
(註4)もちろん「他人がどう解釈しようとわたしは自分が書きたいものを書く」という主張もあると思います。あるいは「作者がどう書こうと読者は自由に読むんだから、予め計算して言葉を選んでもねぇ。」と思ってる作者もいるかもです。けれど、作品は作者と受容者との《間》に位置するものですから、その作品から受け取られる《いま・この》に対しての「あらぬ意図」も「あった意図」も作品に帰着してしまうのは、仕方がないと、僕は考えています。