七回忌

おっちょこちょいなので、急いでいると随分な忘れものをするんですが、先日も塚本邦雄さんの七回忌である神変忌(「変」の字は本字なのですが、ブラウザで表示されることを考慮して略字にすると、塚本さんから叱られそうですね)が東京で開催されて、これは是非、岡井隆さんのお話しや若手歌人が塚本短歌を、どんな風に語るのかを聞きにいかなけりゃあいけない、と思って、前日からの二日酔いの体を引き摺って記者クラブ会館に到着し、いざ受付で参加費を支払おうと思ったら、あ、財布がない!!! 「ちょっと、すみません!」と意味不明なことを言って、鞄をまさぐっても、そう、財布は家の机の上に置いていたという記憶が、そんな時にだけ瞬時に明確に蘇ってきて、それは明らかに挙動不審のふるまいながら、ちょうど、結社の仲間の顔が見えたので「ごめんなさい、お金貸して下さい」とその腕にすがりついて、なんとか事無きを得ましたが、いちにちぶんの汗をその瞬間に流した感じがした大井です。受付の皆様、挙動不審で申し訳ありませんでした。

いやはや。

会場に入ると、「短歌研究」編集長の堀山さんがいらっしゃって、その顛末をお話ししたら、「十一で御貸ししますわよ」といたずらっぽいアルカイックスマイルをされたので、いやいや、その利子を原稿で返したりすることになると大変なことになりそうなので、足りた旨までを鄭重に続けてお話ししたのでした。

 

そう。「神変忌」です。本当ならば6月9日でしょうか。今年、東京での会は6月12日に催されました。

 

僕が短歌を始めた時には、塚本邦雄さんは既に伝説的な存在でしたから、その肉体が遷化してから七年が経つといわれても、実はピンと来ないというのが実際なんです。けれどやはり、会場の中に飾られていた塚本さんの写真や、会を仕切る「玲瓏」の皆さんの立ち居振る舞いの中に、そこに居た筈の「塚本先生」の存在が感じられて、それがかえってしんみりとした思いを誘うようでした。

 

当日の様子を、けれども僕は書きません。岡井さんの講演も、野口あや子さん・堂園昌彦さん・藤原龍一郎さん・魚村晋太郎さんの四名によるパネルディスカッションも興味深いものでしたが、僕が妙な要約をしたり、変に取り纏めたりすることはそれぞれの意に添わない部分もあるでしょうから。

 

代わりに、当日突然指名されてしどろもどろにお話しした「荊冠詩型」という塚本さんのアジテーションについて、少し書いてみたいと思います。

 

昭和三十三年十一月の「短歌研究」には、「“日本の詩”の明日を」という「特集」が組まれていました。塚本邦雄・金子兜太・中村稔という執筆陣が短歌・俳句・詩について論ずるという、今の眼で見れば恐ろしく贅沢な特集です。

 

・明日の〈日本の詩〉のために、短歌の使命と宿命を鮮やかに衝く。

・あるのは〈詩〉の問題だけだ…。その可能性を近代俳句に探る。

・中原と立原の方法の微妙な差異に、抒情詩を解く鍵があるのだ。

 

目次には、それぞれの論の題名に並んでこうした「宣伝文句」が躍っています。今、短歌雑誌に掲載される論考にこうしたコピー文が並んでいたら、面映ゆい感じがするでしょうか。あるいは時代も一巡して、却って新しい感じがするでしょうか。

 

———-引用ここから———-

俳句を定型詩として見直し、一切のいわゆる伝統に対決すること――それは俳句を抒情詩としてその質を問題にすること以上の問題であることを述べた。

このことは短歌にも共通し、将来、詩語の口語化によつて変容するであろう日本短詩型のあるべき定型の姿を、作り手の主体の内側から獲得することにもなるだろう。

———-引用ここまで———-

 

こんな予言的な文章が結末となっている金子兜太さんの「抒情の質について」という論も、考察してみたいところですが、今回は見せケチにしておきましょう。

閑話休題。

 

塚本さんの「荊冠詩型」は、次のような文章で始まります。

 

———-引用ここから———-

二つの伝統定型詩と一つのヴェール・リーブルのための想像上の広場は、面映ゆいほどの照明をあびて今日もそこにあり、ディスカッションのための卓は磨かれ、語らいのための椅子は置かれている。全く何の痕跡もとどめていない。私達の記憶に新しい幾つかのポレミック、討論会、合同作品展は、然もここにいかなる理解のモニュマンも建て得なかつたのは何故であろう。台風の眼の中の、この不気味な期待に静まりかえつた広場にあつて私はその原因を考えたい。

短歌、俳句、詩、この不和の父系家族は、その生誕の日から互いに反目し合い、相手を黙殺することによつて自らの生を営むように運命づけられていたのではないか。広場で話しあえば話し合うほど理解と融和の困難の度は深まり、手のとどく近さにありながら、死のクレヴァスにへだてられた対岸のように聳立し始める。ひるがえつて思えばこの相互の劇しい嫌悪と拒絶の確認こそ、実は三つの詩の真に発展するためのエネルギー源ではなかつたか。このヴァイタリティに満ちた憎しみを喚起したことこそ、まことにこの広場の最大の功績であり、この後の存在理由でもあつたのだ。(略)俳人、歌人、詩人、すべて一人一人、そのフォルムをえらびとつた日から、同時にこの拒絶と拮抗の歴史をえらびとつたのだ、その重い負荷を認識することなしに創作は何の意味ももたない筈だ。

———-引用ここまで———-

 

短歌・俳句・詩、それぞれが互いの作品を読まず、理解せず、密かにそれぞれの詩型に対して批判的な眼差しを向けている状況が語られています。恐らく現在でもこの状況は変わっていないでしょうし、あるいは無自覚に自らのジャンルを良しとしているようであれば、むしろ「死のクレヴァス」はより深くなっていると言えるのかもしれません。

「どうして短歌?」とは、「短歌を書いてます」という自己紹介の後に、必ずと言っていいほど聞かれる質問でしょう。そうした素朴な疑問に対しての回答は、自分の中でも案外難しいものです。「友人(または家族)に短歌やってる人がいて、その人から誘われて…」とでも答えれば、その質問者は納得するでしょう。けれど、自らが自らに対して「どうしてその型式を選んだの?」と問うことは、ある型式で表現をし続ける創作者にとって、必然の問いです。何故これか、何故あれでは駄目か。かつ、何故「新しい」作品を創り続けるのか。「創作者であり続ける理由はなにがあるんでしょうか。読者ではダメなんでしょうか?」 あ、こんな聞き方だと、何処かの仕訳人みたいになっちゃいますが、歌い続けるということは、こうした問いを自ら問い続けるということでもあります。

こうした型式や創作に対する問いは、恐らく現在創作を続けている歌人にとっても常に新鮮であり続けるものでしょう。ただ、今の若手歌人と呼ばれる世代と塚本さん世代とで違うものがあるとすれば、その言挙げの仕方の違いでしょうか。僕らの世代、または僕らよりも下の世代が、僕らの上の世代よりも下手なことはたくさんあるけれど、なによりも下手なのは、この「言挙げの仕方」と議論の仕方ではないかと僕は思っています。総じて言えば、デモンストレーションが苦手なのだと思います。議論の場面では、はったりの効く言葉や、耳目を惹く言葉が必要とされる場面があります。議論慣れした人は、自分の形勢が悪くなると必ず言います「じゃあ、そういうあなたの作品はどうなの?」と。その質問は既に議論ではなく、議論相手に信仰告白や自作への認識を聞いているにも関わらず、そう聞いてきます。自作に対する問いかけは、型式に対して自覚的である作者ほど、その潔癖さゆえに語り辛いものです。そしてその核心的な部分は、創作者本人にも解り辛い。けれど、塚本さんのような言表がある以上、その次の世代は、その言表を乗り越えることが要求される、または要求されていると思われてしまうものです。もとより、そうした議論の土俵に乗らない、という方法があり、多くの歌人はこの「土俵にのらない」という方法、敬して遠ざけるという方法で、遠巻きに型式への意識を深めているのかもしれません。

 

———-引用ここから———-

レコードコンサートの始まる前のわずかな時間に、控室をお訪ねして、塚本邦雄本人に初めて対面した。もちろん短歌専門誌に掲載されていた写真等で、風貌は存じ上げていたが、ご本人を前にして、まず感じたことは、「塚本邦雄は実在していたのだ」という喜びだった。すっかり、あがってしまって、私の方が何を言ったかは覚えていない。塚本氏は、私が「サンデー秀句館」に投稿していることについて、「短歌をつくる者は、俳句の実作経験があった方が絶対に良い。秀句館にも短歌と俳句を両方つくっている人はたくさんいる」ということを言ってくださったように思う。もちろん私にとっては大きな励ましの言葉だった。

———-引用ここまで———-

 

神変忌の際のパネラーだった藤原龍一郎さんが「短歌研究」2011年6月号に発表されていた文章から引用しました。先の文章や、この藤原さんの報告によっても理解できるように、塚本さんは詩形式に対しての自覚的意識を常に持ち続け、それを自らの創作のモティベーションの一つとしていたことが解ります。

 

———-引用ここから———-

韻文は定型詩とは不即不離の関係にある。詩を日常会話語でつづらねばならぬというのは一つの迷信だ。私たちは新しい文章語、いいかえれば文語、詩語の創造にもつと神経質であり、勇敢であつていい。古典語も詩語として生かさねばならぬし、日常会話語、いいかえれば口語の中からも生々とした詩語を発見するのは論をまたないが。その韻文のメカニズムが生むメロディー、リズムは、高度の技術をもつならば、奴隷の韻律から帝王の韻律に昇華させることもスタティックな優美なリズムを、ダイナミックな凄然たるリズムに変貌させることも可能である。出来ないのは短歌の限界ではなく、作家の才能の問題ではないだろうか。

———-引用ここまで———-

 

先の金子兜太さんの文章にも呼応するような、口語・文語の問題、「第二芸術論」への批判が創作者の側から語られているものでしょう。「詩を日常会話語でつづらねばならぬというのは一つの迷信」という言葉は、口語短歌が大きな流れとなっている現状への、過去からの批判であるような印象を持ちます。昭和三十三年に示されていた見解を、僕らは知らないままに創作している。過去の全てを知ることは出来ないけれど、型式の選択に対して自覚的であるならば、こうした論考は、知っておく必要があるのではないでしょうか。

 

———-引用ここから———-

私達が短歌で試みようと思うのは、定型詩としての可能な限りの深い思想を内蔵し、しかもその思想自体のリズムとでもいうべき、痛切な音楽性にみちた作品の生誕である。短歌はオールマイティという言葉に一番遠い、見方によつては弱小この上もないフォルムである。そして同時に数千年の歴史を生きぬいていた、圧倒的な混沌を秘めたおそろしい生きものである。その定型という生きものを、現代から未来にかけて、私達の生にいかに働かせ得るか、その新しい転身への契機をつくるか、定型詩人の負う宿命と使命は、定型の伝統のウエートと同様に重く過酷である。

———-引用ここまで———-

 

「荊冠詩型」の、これが最後のパラグラフです。先の神変忌でも岡井隆さんが、塚本短歌の魅力の一つとして「耳に聞くものとしても優れた音楽性がある」ということを指摘されていたのですが、塚本さん本人が「思想自体のリズムとでもいうべき、痛切な音楽性にみちた作品」を目指していたということには、やはり塚本作品を理解する際にも重要な点でしょう。句割れ・句跨りという手法は、短歌の韻律から「休符」の拍を消し去ってしまうことがあります。塚本作品の急迫した韻律は、この休符の消去によって得られているものがあると思われますが、それは何も、早口な塚本さんの言葉癖ではなく、方法的に得られた音楽性であるということでしょう。塚本作品を理解する場合、その意味内容の解釈に追われ、そうした「韻文」の創造という点を忘れがちになりますが、これから塚本作品を読み返すにあたっては、そのリズムを意識しつつ読んでみたいと思います。

 

塚本さんに対する個人的な思いを一つだけ書くとすれば。浜田到さんの評伝は、塚本さんに読んで欲しくて書いていたものでした。朝の電車で展げた新聞で塚本さんの逝去を知ったとき、ついに間に合わなかったことが申し訳なくて「嘘だろー」と呟いたこと、もうそれも七年前なのですね。