仕事納め

一年間書いてきたこのブログ時評もこれが最後になるんだけれど、何が一番ツラかったかって、「残念だが紙幅が尽きたので止むなくペンを擱く」という逃げ口上が、この時評の場合には使えないってことで(だって「紙幅」の制限なんてないんだから)、毎回、自分が言いたい事の全体像を組み立てながら、「始めから終わりまで一気に書かないとブログっぽくないしなぁ」なんて変な自己規制をつけたのと、「毎回おやじギャグを2回以上は織り込もう」と思ってたので、それもヘンな規制になっちゃってたなぁ、ってことを考えながら、でも振り返ればいろんなこと書いてた一年だった大井です。こんな大変な一年にこのブログ時評を書かせて貰って申し訳ないです。いや、真面目な話。こんな年だったので、もっと政治的なことも書いたほうがよかったのかもしれないし、炎上覚悟で爆弾投げる必要もあったのかもしれませんが。
はい。これでおしまいです。って終われれば一番楽なんだけれど、それじゃ何も短歌の話をしていないわけで。今回で最後なんで、勝手に書かせてもらいます。いや。はい。今までだって随分勝手に書いてたんですけど。

短歌作品を解釈する場合、僕らは知らないうちに、解釈のためのいろいろなコンテキストを利用してます。ある作品を理解するにあたって、そうしたコンテキストは必要なものだけれども、どれに重きを置くかで、その解釈に違いが生まれてきます。ある人にとっては「当たり前」の解釈だったものが、別の人にとっては「とんでもない」解釈だと思われたり、一般的な了解だと思われていた解釈が、別の見解によって覆ったりすることもあります。それは短歌を解釈するためのコンテキストとして何を利用するかに掛かっているのでしょう。ざっとそのコンテキストを分類すると、次の7つ位に纏められるでしょうか。
1.一首コンテキスト:どのような語彙が使われているか。どのような意味か。
2.音韻コンテキスト:どのような音の言葉が使われているか。
3.連作コンテキスト:その作品を含む一連の作品を一緒に考えるとどのように解釈できるか。
4.作者コンテキスト:作者がどのような人であるのか。
5.時間コンテキスト:どの時代に創られたか。どの年代に創られているか。
6.文学コンテキスト:関連する同時代の作品、先行する作品にどのようなものがあるか。
7.連想コンテキスト:何が連想されるのか。

なんのこっちゃ?と思うかもしれませんが、これ、それぞれのキーワードを挙げてみましょうね。歌会なんかで作品が批評される場面や、評論の中でも、次のようなキーワードが出てきたら、あ、あのコンテキストを使ってる、って判断する目印になります。

1.一首:「この一首からは…」「一首に描かれている場面は…」
2.音韻:「声に出して読んでみると…」「アルファベット表記してみると…」
3.連作:「この作品を含む一連の前後には…」「歌集全体の中でこの作品は…」
4.作者:「作者にとっては…」「○○さんが感じたのは…」
5.時間:「当時の感覚では…」「現代からみれば…」
6.文学:「本歌として…」「○○という作品へのオマージュとして…」
7.連想:「この歌から、ふと…を思い出した」「個人的な思い出になるが…」

1.一首コンテキストは、一番基本的な単位のコンテキストでありながら、その実、短歌作品を解釈するにあたっては一番難しいコンテキストです。キーワードの中に「一首に描かれている場面は…」というものを挙げておきましたが、案外、有名な歌ほど「一首コンテキスト」が混乱している場合が多いのです。これについては、後でまた見てみましょう。
2.音韻コンテキストは、1の読解方法のうちに含めることもできるでしょうが、独立させておきました。これについても作品を解釈する場合には良く見かける方法ですね。一首の中に現れる「音」に着目して、それを鑑賞するという作品解釈です。律の分析や母音・子音の構成状態なんかを論じて、その作品の印象を述べる、というものを良く見かけます。句割れ・句跨りなんかの破調の状態を分析したりするのも、これに含まれるでしょう。
3.連作コンテキストは、それと意識されないままに一番使われている方法かもしれません。ある作品が含まれている「一連」を下敷きにして、その一首の意味を探るというものです。連作の「題」や詞書を手がかりにしたり、前後の作品との関連で解釈するなんてのもよく見かけます。
4.作者コンテキストは、その作者の性別・性向・年齢・職業などの属性や、その作者が住んでいる環境などを前提知識として作品を読むという方法です。歌集の「あとがき」の内容から、作者像を探って、その作品を論じていたりするのを「歌集評」と呼ばれる文章でよく見かけますよね。
5.時間コンテキストは、古典と呼ばれる作品や、すこし下った時代の作品を解釈する場合によく使われる方法です。明治・大正・昭和初期の短歌作品を論じる時などにみかけることが多くて、時代考証的な内容や回顧的な文章とともに書かれているのもよく見かけます。
6.文学コンテキストは、別個の作品との比較において、その短歌を解釈する方法です。キーワードとしては「本歌」や「オマージュ」なんて単語を入れてありますが、実際には歌人論としてよく見かけます。ある歌人と別の歌人を対比して、例えば「齋藤茂吉と北原白秋」なんていう比較論もありますよね。
7.連想コンテキストは、エッセイ風の文章でよく見かけます。ある作品にふれて、その作品から自由にイメージされる内容や記憶をもとに語られるものです。論というよりは「語り」になりますが、鑑賞としては独特の面白さがある場合もあります。

ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍を殺すわが道くらし 齋藤茂吉

———-引用ここから———-
七月三十日の夜、はじめは駈けたが、途中から人力車に乗った。蛍がふと青白く道をよぎったのであろう。上句は抒情的に「ほのぼのと」とうち出しながら、一転して「蛍を殺す」という。蛍がのどかに流れるのもいらだたしく堪えがたい。衝動的に蛍を殺したのである。車が走ってゆく道はしんと寝静まり暗くなった街道の道であり、それを抜ければさらに暗い。左手にはかすかに諏訪湖の広がるのがうかがえるのみ。空は星もみえず重く低いのであろう。
一首目につづき、二首目の結句も「わが道くらし」としリフレイン、「悲報来」の導入部を一そう高める作用をする。
『改選版』では歌の順序が、2と3と入れかわっている。が、ここで解釈する如く、初版の順序の方が良いと思われる。
———-引用ここまで———-

これ、吉田漱さんの『『赤光』全注釈』の、先の「ほのぼのと…」の解釈です。
一首の歌について、その日付、背景、創造される風景までを描き出しています。恐らく、吉田さんは茂吉が通ったであろう道を実際に辿って、その道を進むと「諏訪湖が左手にある」ことを確認したのでしょう。一首の作品を鑑賞するにあたって、それだけの労を惜しまないということが凄いことです。
けれど、どうでしょう。先の一首には含まれていない情報が、この注釈には多く含まれていることに気付きます。一首を読んだだけでは、人力車に乗ったことも解らなければ、蛍を殺したのが「衝動的」だったのかどうかも解りません。「この「蛍を殺す」という際の感情は、衝動的な感情だったに違いない、と吉田さんが解釈した」ということは先の文章から充分に伺えます。けれど、茂吉の一首は、そう感じることを規定してはいません。「ほのぼのと」という言葉を吉田さんは「抒情的」と解いていますが、「o音」にくぐもった響きを感じる人にとっては、内攻する暗く重い感情の沈殿を想定することだって可能です。

いや。吉田さんの解釈が間違っている、なんてことを言っているわけじゃないんです。
逆に、そうした解釈が成立するためのコンテキストは何だったか、ということに意識を向けたいんです。この解釈は「悲報来」の詞書「七月三十日夜、信濃国上諏訪に居りて、伊藤左千夫先生逝去の悲報に接す。すなはち予は高木村なる島木赤彦宅へ走る。時すでに夜半を過ぎゐたり。」という情報がなければ成り立たず、また、人力車云々という解説も、作品以外の情報が付加されていなければ、それと知ることもできません。
つまり、こうした解釈の中には、1.一首・2.音韻・3.連作・4.作者・5.時間などのコンテキストが入り込んでいて、それによって解釈が可能になっているということです。
今回吉田さんの文章を使ったことに他意はありません。塚本邦雄さんの『百首』シリーズや、万葉集の注釈本とかでも同じような傾向の「解釈」が展開されています。吉田さんの文章は、作品鑑賞のお手本のようなもので、その中にはコンテキスト解釈が複雑に入り混じっているということです。

さて、そうした時、「歌を読む」とはどういう行為なのでしょうか。歌を解釈・鑑賞するということはどういうことなのか。

考え続けながら、じっくりと作品に向き合うということ、他者の解釈なども参考にしながら、自分が感じている印象を鑑賞へと深めていくこと、それが「歌を読む」ということだと僕は考えています。

可能な限り、何度も何度も読む。時間を掛けて読む。そうしたいと思える作品に出会うのは、幸せなことです。だから、こんな時評なんて読んでるヒマがあったら、歌を読んで下さいね。

まあ、今回はお笑いなしの方向で。
あ。はい。この文章そのものがお笑い草だってことは承知していますから。
これが今年の仕事納めになります。来年はどなたが書かれることになるのか、実は知っているんですが、内緒にしておきます。

一年間、有難うございました。紙幅はまだまだ尽きませんが、まあ、この辺で。
では。

大井 学