「東京詠」という視点

 「木俣修研究」第12号が刊行された。年2回刊行なので、すでに6年を超えて継続されていることになる。事務局が久保田登、編集室が外塚喬ということで、旧「形成」の方たちが中心となって刊行されているわけだが、先師の作品を丁寧に検証して行くことは、短歌史にその作品をきちんと位置づけるということで、重要であり、貴重な仕事であると思う。

 内容も山本登志枝「木俣修の鴉の歌」、林田恒浩「木俣志ま子追悼録『雪天の白鷺』のこと」、外塚喬「修の海外詠」と木俣修の薫陶を受けた歌人たちが中心に執筆しているが、毎号、外部からの執筆者の文章も掲載されている。今号には山田航「『市路の果』の東京詠」と鷲尾三枝子「困難に向かう姿勢」が掲載されている。どちらも、面白い視点から木俣修短歌を読み解いた文章で、興味深く読むことができた。

 特に山田航の「東京詠」という視座の設定はユニークであるといえる。『市路の果』は、木俣修の第一歌集であり、木俣修の東京師範学校在学中の大正15年から昭和6年までの作品が収載されている。年齢では20歳から25歳にあたり、木俣修が滋賀県から上京して、東京での生活が始まった最初期の作品ということになる。

山田航はこの上京後の木俣修の目に東京はどう映ったかという問題意識によって、『市路の果』の作品を解読しているのである。

たとえば、次のような歌の解読である。

 

   少年工のねむげなる顔に明る灯(ひ)を見つつさぶしも夜(よは)の電車に

 

 この作品が「氷川下町」という連作中の一首であることを明らかにした上で、山田航は次のように思考を展開してみせる。

 

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 この連作のなかでは、「少年工」という新しいモチーフを登場させている。「少年工」と乗り合わせる「夜の電車」とは、都電護国寺線のことだろう。20番線とも呼ばれていたこの路面電車は、文京区の江戸川橋から神田の須田町までをつなぎ、山手線の内側を並行する不忍通りをぐるりと回る路線であった。

 

———-引用ここまで———-

 

 そしてこの電車の沿線に、渋沢栄一が創立した理化学研究所があったことを指摘し、さらに次のように続ける。

 

———-引用ここから———-

 

 木俣が歌に詠んだやや疲れ気味の「少年工」も、もしかしたら当時まさに成長途上にあった理化学研究所に勤めていた工員だったかもしれない。そしてそう考えると、木俣が少年工に対して向けていた視線は、自分より若くとも内面的には成熟している若年労働者へのかすかな憧れであったように思える。

 

———-引用ここまで———-

 

とても興味深い読解といえよう。大正末期から昭和初頭、理化学研究所は理化学興業といった系列会社を創設して、工作機械やゴムや飛行機部品といった重工業製品を作り始めてもいたのだそうだ。まさに、芥川龍之介が「ぼんやりとした不安」を感じ、つまりは、軍靴のひびきが聞こえ始めていた時代である。少年工もまた、軍需産業の末端の一つの歯車として、労働していたにちがいないのである。

 ここには当時の時代相があり、東京という都市ならではの構図が山田の指摘どおり、確かに見えている。そして、さらに想像力を働かせれば、労働者とインテリゲンチャとの対比もがこの一首にはある。その点から一つ山田航の見解に異をとなえておくならば、師範学校の学生木俣修の目に映った少年工は、「あこがれ」という言葉であらわすのはちがうように思う。少なくとも木俣修には、疲れた少年工の姿に、資本と労働の軋みくらいは感受していただろうと私は思う。とはいえ、山田航のこのような視点からの読解には、新鮮な驚きがあり、敬意を表したい。文章の結末部分には、このような視点を採用した山田航の意図が鮮明に書かれているので、引用する。

 

———-引用ここから———-

 

 『市路の果』には清新な青春歌が並ぶが、若き上京者の首都に対する驚きの感覚が生き生きと表現されているのがその要因だろう。大塚、雑司ヶ谷、目白などそれぞれの街の雰囲気をうまく捉え、それぞれの物語性を持たせている。高度な近代都市である一方でまだ近世の香りも色濃く残っていた、関東大震災以前の東京の姿。『市路の果』は歌集でありながら、昭和初期の青年の東京ライフを書き記した、一つの都市論となりえている。

 

———-引用ここまで———-

 

 上京者の青春歌集を都市論として読み解けるという山田航の発想は新鮮で鋭い。

今回は木俣修の『市路の果』が対象となっていたわけだが、「東京詠」という視点によって、他の歌人の歌集からも、今までに見えなかったものが読み取れる可能性はきわめて高い。思いつくままに名前をあげてみるだけでも、与謝野晶子、若山牧水、石川啄木、北原白秋、斎藤茂吉、土屋文明等々、みな上京者である。彼らは故郷を離れて上京し、東京の風物にふれることで、いかなる感受性の変化があったのか、そのような読み解きに、この山田航が提示した「東京詠」という方法はきわめて有効である。

さらに考えれば、この方法を緩用すれば、岩手出身の石川啄木と東京っ子の土岐哀果との「東京詠」の比較もできようし、木俣修にもどっても、北原白秋門の先輩である生粋の東京人村野次郎の作品との比較で、新たに見えてくるものがあるかもしれない。いずれにせよ、大きな刺激をもたらしてくれた山田航の文章であった。

 こういう視点が木俣修短歌を読み解く上で、すでに前例があるものなのかどうかはわからないが、少なくとも、「木俣修研究」という「場」の継続があったからこそ、このような文章に出会うことができたわけである。同門以外の視点の効用ということであれば、それは企画の成功なのである。亡くなった歌人はすぐに忘れられ、その仕事はかえりみられることはないという風潮の中で、志ある研究誌の存在価値はこういうところにあるのだと、あらためて確認することができた。