102冊に感謝

今月の8冊

 

『流木』高野公彦(角川学芸出版)

『磐梯』本田一弘(青磁社)

『銀色の馬の鬣』岡井隆(砂子屋書房)

『行け広野へと』服部真里子(本阿弥書店)

『桃の坂』竹内由枝(ながらみ書房)

『鯨の祖先』武富純一(ながらみ書房)

『秋の茱萸坂』小高賢(砂子屋書房)

『風のファド』谷岡亜紀(短歌研究社)

附・1年間の総目次

 

1年間ありがとうございました。

12ヶ月で100冊の本を紹介しようと決めて書き始めたコラムは予定を超えて102冊になりました。

毎月たくさん発行される歌集や歌書、雑誌などの中から、ひと月平均8冊を選ぶという

わが身の丈を超えた大それたことも終わります。

末尾に1年間の総目次をつけました。

 

 

11月某日

『流木』高野公彦

 

第14歌集。

 

雨の日も雨障り無く電線でだまつて濡れてゐるよ山鳩

*「雨障」に「あまさは」のルビ

じだらくに丸寝すること体力がなくてやめたり六十代にて

こなからは真綿のやうなやはらかき言葉、今夜もこなから飲みぬ

 

高野公彦の歌集には知らぬ言葉に出会う楽しみがある。

死語となりつつある良き言葉を、実際に使うことで保存してゆこうという意志の表われである。珍しい言葉を使わんがための歌にならないよう、言葉が浮き立たないよう、細心の注意を払っていることと思う。

1首目のような物悲しい歌に、2首目のような自虐的ユーモアのある歌に、保存すべき言葉は使われて、歌の味わいを更に深める。

「雨障り」とは、雨に妨げられて外出できないこと。

「丸寝」とは、着物を着たまま寝ること。「まるね」「まろね」と読む。

3首目の「こなから」は「小半・二号半」と書き、半分の半分の意味。あるいは米又は酒だと1升の四半分、すなわち二合五勺のことを言う。

「こなから飲みぬ」とはもちろん日本酒のことである。

 

焼酎五、お湯五、風ある冬の夜の煮返して食ふだいこん旨し

家飲みも外飲みも良し外飲みの翌日の二日酔ひも人生

渋谷大学逍遥学部酒学科、焼鳥専攻、今日も飲むわれ

 

酒の歌が多いのも特色。

1首目、実に美味そうである。大根も美味そうだ。同時に肴を歌うことが多い。

酒好きにして食いしん坊ということが伝わってくる。

ただ飲みすぎることも多々あるらしく、2首目のような苦みのある歌も生まれる。

そんなわれを仕方ない奴と突き放した3首目。酒学科ならば飲むが勉強、勉強熱心な人である。

 

水槽の水の裏にも春が来てめだかの動き素早くなりぬ

人生の日溜りのやうなベランダに出て鮒の世話、海老の世話する

量販店が小店小店を潰すさまヒヨが小鳥を逐ひゆくに似る

*「小店小店」に「こみせこみせ」、「逐」に「お」のルビ

 

高野公彦の歌によく登場するのが、好きな淡水に住む生き物、そして大きらいなヒヨドリ。

好きなものをうたい続けることは楽しいから理解できる。だが、嫌いなものをうたい続ける執念は見習うべきかもしれない。

ヒヨドリは余ほど嫌いらしく、かつて「極道院悪鵯喧騒居士といふ戒名なども考へにけり」(極道院悪鵯喧騒居士に「ごくだうゐんあくひけんさうこじ」のルビ)『水苑』という歌も作ったくらいだから徹底している。

 

ウオークする人妻のゐて夜のプール水たわたわと揺れしづまらず

地下鉄に居眠り長き少女ゐて桜明かりのやうな耳たぶ

こんりんざい男なるわれ裸婦像のあばらぼね無きまろやかさ愛づ

 

女性もいろいろな形でうたい続けて来たが、その色気のある表現方法は本歌集でも健在である。

人妻が揺らす水、少女の耳たぶ、裸婦像にないがゆえに思い起こされるあばら骨、どれをとっても色気に満ちている。

 

〈花束〉は太平洋をただよへり一つ一つの〈花〉に分かれて

月が越え日が越えゆけり三陸の地図に載らざる瓦礫山脈

餓死、戦死、被爆死どれも悲しくてさらに原発避難死もある

居酒屋で原発のことけなしゐる爺さまがゐたらそれが僕です

*「爺」に「ぢ」のルビ。

 

平成22年1月から平成24年6月までの間に発表された作品が収められているので、東日本大震災や福島原子力発電所事故に関連する作品が多いことも大きな特徴である。

1首目には「津波は多数の遺体を沖に連れ去つたといふ。」と詞書がある。

被災地に活きる人々に思いを寄せて、生と死の悲しさをうたう。

被災者だから歌える、被災者でないから歌えないの問題ではない。日本人として、人間として、怒りを持って、悲しみを持って、歌っている。

4首目を読めばわかるように、高野の原発への思いは一貫している。

師の宮柊二が「中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ」『純黄』

と詠んだように。

高野の歌は愛に満ちている。

生きている者への愛、死んでいった者への愛。

その愛は震災を詠んだときにも表れる。

最後に特に好きな歌を4首あげます。

 

ボウルにて夜ふけ砂吐く浅蜊らよ優しき私語を聞く思ひする

水を発つ一つ白鷺ゆわゆわとたわむつばさの仕組みうつくし

たんぽぽの咲くこの星に太陽が〈ながい付き合ひだね〉とささやく

浮き草の布袋あふひの下蔭にじつと動かぬ真鯉うつくし

 

 

11月某日

『磐梯』本田一弘

 

3年前、『眉月集』(びげつしふ)にて寺山修司短歌賞を受賞せし作者。

第3歌集なる本書も『眉月集』と同じく「後記」を古の文体を使ひて書きたるは、いと趣きあることなり(以下、現代文・新かなとせんことを許したまへ)。

 

「磐梯は、磐の梯なり。天空に架かる岩のはしごなり。夫れ神は天井より磐梯を伝つて地に降りたまひけむ。会津なる磐梯山は、福島の空とわれらの地を繋ぐかけはしなり。」

と「後記」に書かれている。

「磐梯」を直接歌った作品をまず見てみよう。

 

磐梯は磐のかけはし 澄みとほる秋の空気を吸ひにのぼらむ

みなづきは水の月なり濃みどりの雨を着たまふ磐梯のやま

みちのくの体ぶつとく貫いてあをき脈打つ阿武隈川は

 

本田一弘の短歌と言えば、なんといってもダイナミックな自然詠である。

見ているだけでなく、山に登り、体感しているからであろう、言葉が息をしながら立ち上がってくる。作者の体内より確かに出て来た言葉という感じがする。

文語にしても完全に身に着いた文語だから使われていても浮き立つようなことはないし、ときどき混じる口語(たとえば3首目の「ぶつとく」)も口語とは思えないくらい文語に馴染んでいる。

知識ではない景色と言葉が、定型に収められている。

 

うち続く余震の最中死に近き伯父のベッドを押さへつつゐき

午後五時の放射線量告げてゐる「はまなかあいづ」のアナウンサーは

三月の記憶抱く雲浮かべつつ何にも言はぬふくしまの空

 

本歌集に収められている歌は平成22年から26年までに作られたもの。福島県会津若松市に住む作者にとって東日本大震災に起因した原子力発電所の事故は避けては通れないテーマである。

テーマというよりも、現時点で作者の創作意欲を突き起こしているものは、本来の姿を失ってしまった〝福島の今〟であるようだ。

福島を変えてしまったものへの怒りと、かつての福島を取り戻したいという祈り。しかし簡単には取り戻せない現実と失望。

 

引き受くるところあらなく福島のつち福島を移りゆくのみ

ふたたびの冬来たりけり大熊町仮設住宅の屋根を葺く雪

虚無僧のたづねてきたる磐梯のやまはやさしく雪を解かしぬ

横積みのままの時間よ、横積みの墓石に人は手を合はせたり

大熊の梨うまかりき過去の助動詞「き」にて言はねばならぬなにゆゑ

超音波機器あてられて少女らのももいろの喉はつかにひかる

夫れ雪はゆきにあらなくみちのくの会津の雪は濁音である

 

知識ではない言葉と景色・・・自然詠のところで書いた本田短歌の特色が現在の福島を描いた歌にも出ている。

1首目の「移りゆくのみ」に混じった嘆息を聞き漏らしてはならない。

2首目の厳しい現実も、3首目の希望のある現実も、作者が描きたかったのは過ぎてゆく時間の中で自然は巡っていて、人々は自然に従って生きて行かなくてはならないということなのではないだろうか。

雪が降れば雪に耐えられるしかないが、それは自然が巡り、春が来て雪の解けることが約束されているから耐えられる。

もし、春の来ることが約束されていなかったら、人々は何を頼りに生きたらいいのだろう。

作者はまた鎮魂のために死者をうたい続けている。

最後に3首、鎮魂の歌をあげておく。

 

いづくより桃の香は来て去りてゆく桃の香ならむ死者の軀は

なきひとをおもふあはゆきなきひとをおもふこころのうちにのみふる

忘れえぬこゑみちてゐる夏のそら死者は生者を許さざりけり

 

 

11月某日

『銀色の馬の鬣』岡井隆

 

「鬣」に「たてがみ」のルビ。

「あとがき」に

「『斉唱』から算へて、三十一番目の歌集とも、三十二番目の作品集ともいへる。ただ、わたし自身としては、世に問ふといつた気概はもう衰へてしまつてゐる。ごく個人的な興味にそそられて編んだ私家集といつた感じだ。」

とある。

 

岡井隆の最近の歌集を手に取り読みはじめると、途端に、ゆっくりした時間が流れ出す。

本歌集も読もうとすれば、3時のお茶を飲みながら本を開き、冬の日が沈んでしまうまでには読み終えることもできるのだが、ゆったりした時間を楽しむために、ときおり本を伏せて、とりとめのないことを考えては、ふたたび読む。そんな時間が楽しい。

 

ラベンダが匂ひ始めた 残されたわづかの時をよろこぶみたいに

ここまでの話題は捨てて話すべしこのさみどりの朝の浄さを

三叉路の一つを選ぶたゆたひの、いやあ永かつた(それも過ぎたが)

もう次の仕事に橋をかけながら新花巻の駅へわたりゆく

 

歌は年ごとに収められていてる。

ひいた4首は2012年の作。

時間に沿って編まれた歌集を読んで行くことが、2,3年前には退屈に感じたものだが、実はとても安心で、落ち着いて読めるということに最近になってわかって来た。

本歌集に流れている静かな時間(作者本人には決して静かではないのだろうが、歌を読む限りは静かな時間しか見えて来ない)に沿ってページをめくる。

喩に満ちた岡井隆の歌だから、喩を探りながら読んでもいいが、1首目などは素直に言葉のまま読むにとどめておく。

2首目と3首目は喩を読み解きたくなる歌である。

「ここまでの話題」と「三叉路の一つ」が喩なのだが、読もうとするとき絶対に避けて通れないのが岡井隆の人生である。

だから私が知る限りの岡井隆の経歴を思い起こしては喩に当てはめてゆく。それはそれで楽しい作業なのだが、こんな読み方でいいのだろうかと、いつも大いに迷う。

作者の言いたいことは絶対他にあるはずで、自身の人生の紆余曲折を読ませたくて喩を使っているはずはない。

だからきっと別の読み方があるはずだと四苦八苦するのだが、なかなか納得のいく読みは見つからない。

喩を読み解きたいと思いつつ、もう最近は読むのをやめている。

提示されている言葉の意味だけで十分ではないかと思うようになった。

だから私は悪い読者だ。けれども、ゆったりとした時間を過ごしたくてページをめくってゆくのである。

 

両膝に両手を置きて立ち上がる長く書きたる午後の椅子より

相良宏も滝沢亘も此処に無いそして何故だかぼくだけは居る

動詞つて魔ものだなあつて気付いたら詩の小舟が近づいて来た

*「詩」に「うた」のルビ

〈在る〉と〈在つた〉の境の橋をわたるべく白きさくらはいざなふわれを

この辺でおしまひにして置かないと 鴉が襲ふ小雀たちを

芳美対わたしのやうな棘はなくしかしはつきりとぼくとは異質

 

今度の6首は2013年の作。

1首目には対になる歌がある。

「両膝に両手を添へて長き長き討議の末に立ち上がりたり」

両膝に両手を添えた姿勢は、何かを打ち切る時に「さて」と言いながらとる姿勢だ。

別の言い方をすれば、一つ事に区切りをつけて別のことを始めるためにとる儀式のようなものだ。

では、何を終わらせ、何を始めたのか、思うことはいろいろあるのだが、そこまでは踏み込まないのが、岡井隆を読むときの私の姿勢である。

3首目の「動詞」。ペンで原稿用紙に書く動詞だけではなく、もちろん実際に行動したことも含まれているわけで、詩は空想によるところが大きいけれども、行動しないことには何も始まらないようだ。

6首目の「ぼくとは異質」なる人物は加藤治郎。

 

大輪の花がゆつくり咲くやうな君だつたから行き過ぎたのだ

これから読む予定の本をかたはらに積み上げて 一寸 淡い虚しさ

*「一寸」に「ちよつと」のルビ

ぎりぎりの時間になつてからがいい桃もその刻を待つてゐたのだ

つきまとふつて恋ふれば誰もすることさ蝶が来てゐるレモンの花に

今年初めてみんみん蟬の啼くをきく此の道を来て今朝はよかつた

 

そして最後は2014年の作から

1首目には「「輪」といふ題を与へられて。」という詞書がある。

「大輪の花がゆつくり咲くやうな君」を大器晩成した君と読んでみるとわかってくる。

若い俊英にばかり気を取られているうちに見落としていた時間をかけて開く才能。

「だったのだ」の終わり方に、君への非難めいたものも少しは感じるが、行き過ぎてしまった自分への苦い思いを強く感じとることが出来る。

2首目、いつまでも現在進行形の歌人として、まだまだ書くべきことを多く持っているのだろうが、時間的限界というものも仕方なく存在する。

5首目の「今年初めて」の歌。好きだ。「此の道を来て今朝はよかつた」の言葉を聞けて嬉しい。

「此の道」も「今朝は」も、距離的時間的には短いが、実は長い長い距離を時間をかけて歩き続けてきたから辿り着けたのである。

大切にすべき歌だ。

 

 

11月某日

『行け広野へと』服部真里子

 

第24回歌壇賞受賞者の第1歌集。

「海開きまでの数日語りあう小説のタイトルの良し悪し」という歌もあるのだが、本書は

タイトルがとてもいいし、各章題もシャレている。

たとえば「雲雀、あるいは光の溺死」「夜の渡河」「塩の柱」「スプリングコート・フェアが終わるまで」。

いい題とは「何が待っているのだろう」と読みたくさせる題なのだが、これらは次の歌から採られている。

 

三月の真っただ中を落ちてゆく雲雀、あるいは光の溺死

夜の渡河 美しいものの掌が私の耳を塞いでくれる

塩の柱となるべき我らおだやかな夏のひと日にすだちを絞る

スプリングコート・フェアが終わるまで私の中にひそやかな森

 

三月の光はあらゆる生き物に命を与えるものだという一般論を根底からひっくり返してしまう発想が凄い。光に溺死するというイメージも鋭い。

2首目、私の耳を塞いでくれる掌とは音楽だと思った。帰宅途中の電車の中だろうか? 実際に電車が河を渡っているところかもしれないし、仕事が終わって緊張の解けてゆく気分を「渡河」と言ったのかもしれない。

一日の雑音から解放されて、美しい音楽が耳に満ちてくる。

掌と表わしたことで、指揮者、ピアニストあるいはヴァイオリニストの手が見えてくる。

3首目の「塩の柱」は聖書に出てくることば。その意味するところはよくわからないが、「すだちを絞る」という終わり方がユーモラスで、今をたのしむ若さが輝いている。

4首目、購買欲に耐えている。そんな俗なことも「私の中にひそやかな森」と喩えてしまう。

 

スプラッシュマウンテン落ちてゆく春よ半島は今ひかりの祭り

人の手を払って降りる踊り場はこんなにも明るい展翅板

壮大なかかと落としのように日は暮れて花冷えの街となる

 

読みながら「落ちる」「降りる」など下降に関する動詞が多く使われていると思った。

3首目の「かかと落し」は格闘技の蹴り技で、まさか日没の比喩に使われようとは思ってもみなかった。

落下を恐れるのではなく、むしろ楽しんでいるところに作者の一筋縄ではいかない表現者としての混乱具合を見る。

 

窓ガラスうすき駅舎に降り立ちて父はしずかに喪章を外す

父よ 夢と気づいてなお続く夢に送電線がふるえる

神様を見ようと父と待ちあわせ二人で風に吹かれてすごす

父親と塩田をおとずれる夢のまばゆさ増して目覚めてしまう

夕立を抜ける東海道線をつかの間夢へ迎え入れたり

 

よく使われている言葉といえば「父」と「夢」も繰り返し歌われている。

数えていないが、それぞれ10首以上、20首近くあるのではないだろうか?

ときどき父は生きているように歌われているのだが、亡くなっているのだろう。

父を詠んだ歌、夢を描いた歌、そして父と夢で会っている歌、どれもよく出来ていると思う。

消えてしまったものと消えてゆくものへの希求が響いてくる。

 

遠雷よ あなたが人を赦すときよく使う文体を覚える

さようなら三月、もう会えないね 陽だまりにほつほつ化粧水をこぼして

天国の求人票をまき散らし西瓜畑へ遊びに行こう

春だねと言えば名前を呼ばれたと思った犬が近寄ってくる

 

多いと言えば4句と結句の句またがり句割れ。

1首目もそうだが、今まで引用した歌の中にも「人の手を」「壮大な」「父よ 夢と」も該当する。当然、意識してやっているのだろうが、果たして全ての歌で効果をあげているのか?

2首目の化粧水のような具体の出し方、3首目の大らかな発想、4首目の面白い場面の掬い方など、本当に上手な人だと思う。

 

 

11月某日

『桃の坂』竹内由枝

 

第2歌集。

青井史が亡くなり、「かりうど」が解散した後、「りとむ」に所属している。

 

競争を強ひられて来し団塊のわれらの絆伸び縮みする

ストレスをスライスしたらどうなるの ブロッコリーを切り分けてゐる

卓上をはつ夏の風吹きゆけり白磁の皿にアスパラの森

アルバムに貼られなかつた思ひ出の方がなかなか忘れられない

嘆息はひとりでそつと吐くものを幼なにふうふう真似されてゐる

 

作者は団塊の世代ということだから60代の半ばというところだろう。

それにしては歌が若々しい。

2首目は「ストレス」と「スライス」の音感が似ているところから来た発想だと思うが、MRIの検査を受けた体験に基ずくのかも知れない。

いずれにしても作者はストレスの固まりであるらしく、原因も幾つか持っているようだが、そこからブロッコリーを切り分けるに転じたところがセンスの良さだと思う。

これがハムを薄くスライスする場面だったら、生々しくて詩にならなかった。

3首目の「アスパラの森」という見立ても楽しく清潔だし、4首目の口語も溜め息めいていて実感がこもっている。

5首目は幼に真似されたことで、落ち込んだ気持ちから立ち直れたのではないだろうか。「ふうふう」というオノマトペも独自の使い方がされていてユーモラスだ。

 

徘徊する母追ふ父を吾が追ふ 夜空に半月しいんと貼りつく

母の笑顔に会ひて歩幅の広くなりグループホームの花の下ゆく

生き方は死に方と言ひし青井史悔い見せぬ死顔われらに見する

*「死顔」に「かほ」のルビ

 

歌集に収められた10年間に作者は身近な人を何人か失った。

看取りの歌と挽歌が多い歌集であるが、1冊を読み終えても暗い印象は残らない。

明朗な歌の魅力がかなり強く、作者が短歌に求めているのは本質的に明るいものなのだろう。

 

好奇心なほ健在をよしとせむ父の心を連れ出す小春

境内の絵馬に書かれし誤字脱字神もあやぶむ合格祈願

せせらぎの芹を摘み来て椀に盛る日常やうやく戻る七草

わたし達と言ひかけ私と言ひ直す人それぞれに思ひのあれば

うらうらにくれなゐにほふ桃の坂たれかを送り誰かを待ちゐき

聞き返したらもつと寂しくなるだらう聞こえたやうに頷いてゐる

 

1首目、体は衰えたけれども好奇心ある父と過ごす時間を大切にしている。

2首目の「神もあやぶむ」を導いた感性や、3首目のサ行音を響かせた語感も見るべきものがある。

4首目以下はなかなか奥深い作品で、表現は若々しくても、やはりこうした生きている上で生じてしまう切り傷や擦り傷を表現できるのは、年齢を重ねてきた人だけだと思う。

もちろん年齢を重ねれば誰にでもできるということではなくて、短歌という表現形式を常に身近に置いて鍛え上げて来た人だから出来ることなのである。

 

 

11月某日

『鯨の祖先』武富純一

 

第1歌集。

大阪在住の作者。作中に時々大阪弁が使われていて、いい味を出している。

歌集を貫くのは「おかしさ」。「おかしみ」ではなくて「おかしさ」。

「おかしみ」と「おかしさ」を私なりに解釈すれば「おかしみ」は後から滲み出てくるもので、「おかしさ」は意識的に表面に置かれた笑いの種である。

短歌が好むところは「おかしみ」であり、「おかしさ」は歓迎されてこなかった。

「狙ってる」などと言われて忌み嫌われた。はずして、こけることも多い「おかしさ」。

「おかしさ」を徹底的に貫き通した歌集として注目をした。

 

「入れてんか」半歩詰めては一人増ゆ梅田地下街立ち呑み串屋

枝豆は大豆なんだと知った時この世のしくみが見えた気がした

白ネギを早めに入れて紛糾し以来わが家にすき焼きあらず

ラブホテル出しベンツがおっとりと青信号を曲がりてゆけり

*「出」に「いで」のルビ

 

1首目の「入れてんか」が醸し出す雰囲気と味わいがいいなあと思う。他の「半歩詰め」も「梅田地下街」も「立ち呑み」も「串屋」も、どれをとっても欠くことのできない言葉なのだが、それを並べただけでは、ただの場面説明。

「入れてんか」がなくても、その場の雰囲気は多少伝わるけど、短歌としては全然物足りない。

「入れてんか」があって、そこに居る人たちが動き出し、串が匂い始めるのだ。

きっとこれは大阪弁だからであって、「入れてくれ」や「入れてちょ」では味わいに欠ける。

2首目、知ったのは子どものころだろう。大人なら、たいてい知っている枝豆と大豆の関係。それぐらいで「この世のしくみ」が見えてたまるかと思うのだが、あくまでも「気がした」だけであって、本当にこの世の仕組みが分かったわけではなかったのだ。

あまりにもバカバカしくて普段なら気にも留めないようなことを、短歌にして、そして読者を立ち止まらせる。

相当な技量を持った人だと思う。

3首目はなかなか深い。よく煮えたネギが好きな作者と、シャキシャキを好む家人。たかがネギの煮え方で大ゲンカになり、「もう、すき焼きはしない」と宣言して守っている執念深さ(執念深いのは作者か? 家人か?)。相当笑えるが、それでも別れず暮らしていることに感動する。二度とすき焼きをしなかったことで家庭が保たれたのだろうか?

4首目も、これもまたどうでもいいことなのだが、立ち止まって私は考えてしまう。おっとり曲がったのは、普段から慎重に運転するからなのか、それとも疲れたからなのか? 運転しているのは男か女か? 人生に何の役にも立たないことを考える時間がとても楽しい。

 

最大の倍率よりもひと回り引いたぐらいで景は落ち着く

コスモスは揺れてコスモス卓上の揺れぬコスモスあかんコスモス

ありがとうございましたの「ざ」を過ぎたあたりで体は次へ向きたり

ウキを見る頭の中はぐつぐつとローン、〆切、車の凹み

今晩は刺身にしよかと言い出せば「賛成」の声知らないおばさん

「ご飯やで」LINEの電波が駆け上がり二階の子らが駆け下りてくる

道ゆずり会釈返され一日を生き抜く力得た思いせり

 

「おかしさ」を貫いた歌集と最初に言ったが、「おかしさ」を抑えて、しみじみ読ませる歌もある。

1首目はみずから飛行機を撮影しているところを詠んでいるのだが、箴言めいていて、なかなか奥が深い。

2首目、つまりは本来の場所にあるべきことが大切であり、人間も自分らしく生きなければダメだという主張である。では、作者はどうかと言えば、卓上のコスモスである可能性が高い。そう読まないと、この歌は単なる説教になってしまう。

3首目の観察力と発見力、4首目の苦み、5首目の現状に妥協する生き方(おばさんが妻とすれば)、6首目の今どきの家族の姿、7首目の小さな幸せ。

「おかしさ」だけでない、人生の大事小事無駄その他もろもろを読むことのできる歌集である。

 

 

11月某日

『秋の茱萸坂』小高賢

 

第九歌集が遺歌集になってしまった。

遺されていた歌集草稿に、直前の作品を加えた660首が収められている。

『秋の茱萸坂』は草稿に小高みずからが付けていたタイトル。

夫人の鷲尾三枝子が「あとがきに代えて」で次のように書いている。

 

「「茱萸坂」は国会議事堂の南側を下る坂で、金曜の首相官邸前のデモで一緒に歩いた道です。私は月に一度ほど参加するだけでしたが、彼は、よほどのことがない限り、毎週この反原発のデモを休むことはありませんでした。」

 

言うほどにむなしくなりぬしかしまた言わねばならぬ言ってこそわれ

行動は表現をこゆ一例は南相馬にむかいたるバス

ああ彼は駄目になったなモチーフがひどく時代にすりよる気配

 

歌人として大切な発言をし続けた小高賢の活動を考えれば、軽く歌われてはいるが、1首目の歌は重い。

幾度となく「むなしくなり」ながらも、「言わねばならぬ」と自分を奮い立たせた。

「言ってこそわれ」は自負であろうが、起爆剤でもあったのだろう。

言わねばならないことの苦しさが伺える。

2首目もまた厳しい歌である。バスはボランティアを乗せたバス。文学の無力を自ら認めた潔さ。

3首目の「彼」に具体的に当てはまる人物はいるのだろうが、時流に左右されやすい歌壇の風潮そのものを言っているとも読めるし、小高賢が自分への警告として詠んだとも取れる。

 

わが顔もいずれは花に囲まれるできたら赤き花を多目に

髭を剃り貌をみつめるそうやって立ち向かいつつ いつしかは死ぬ

不審死という最期あり引き出しを改めらるる焉りはかなし

水張田を背後に生を残すためカメラに向かい無理笑いする

われに来る遠からず来るこの世から魂うき上がり離陸するとき

*「魂」に「たま」のルビ

 

死を扱った作品が多い。そのことを自らの死を予感していたからと言うことも出来るのだが、同年代の歌人を見ても、もはや死は重要なテーマであり、小高が死を詠んだことに格別不思議はないと思う。

身近な人の死に多く接するようになり、自分の死も考えるようになる。当然のことだ。

死を詠むと、言霊が死を呼び寄せる。死は詠むものではない。そんなことも小高の死の直後に言われもしたが、まったく同調できない発言だった。

引いた5首、いずれはやってくる死を直視して、いい歌だと思う。

 

義姉ふたり妻をまじえて話し出すその輪のそとの新聞とわれ

衰えの自覚あるゆえなおさらに子のつきつける指摘は不快

ショートケーキ慰問袋のようにもち「ご無沙汰」と子が居間に入り来る

補助輪をはずししころを人生の華のごとくに子は語り出す

 

妻や子を歌った作品が楽しい。

人間関係の機微を描くのが上手かったと改めて思う。

最後に特に好きな歌を5首あげておきます。

 

新入生の入部誘うタテ看の誤字もおかしき木蓮の横

杖がきて杖かえりゆく投票の朝のこの世の杖のかずかず

ネクタイをかたく絞めれば目や口が鼻を目指して集う気のする

気色ばむことなくなりて唐紙をしずかに閉めてわれは出でゆく

ひっそりと隠れて生きる希みから恥ずかしきほど遠ざかりたり

 

 

11月某日

『風のファド』谷岡亜紀

 

第4歌集。

寺山修司短歌賞・前川佐美緒賞を受賞した前の歌集『闇市』から8年が経った。

収められているのは527首。

多作の谷岡亜紀だから厳選したことが伺われる。

 

北北東の風 アゲンスト 風力3 離陸のための無線を入れる

東から季節運びて来る風に選ばれて今朝離陸待ちおり

夕映えの海の表の銀を撫で春の薄暮の浜に着地す

大木に吊り下げられて救急を待ちつつ昼の湾を見ており

*「救急」に「レスキュー」のルビ

渡り来る風の言葉はわれに告ぐ 考えずただ今を感ぜよ

 

パラグライダースクールに通い、パイロット・ライセンスを取得した作者。

1首目は飛び立つ前の状況を、まるでレポートするかのように描く。事実以外のものを一切排した文体からは離陸前の緊迫感が伝わってくる。

2首目も離陸前の情景。その日は風の具合がフライトに最適だったのだろう。「選ばれて」に含まれた優越感が無邪気で微笑ましい。

3首目と4首目は着陸のとき。

「海の表の銀を撫で」の表現、特に「銀」を導き出したあたりは、体験した者でないと絶対に出来ないと思う。

想像では越えられない体験の強みを感じる。

4首目はパラシュートが木にひっかかってしまい降りられなくなっている。場面が醸し出すユーモアに注目したい。

5首目、空を飛んでいる時、作者は何も考えていないという。

「あとがき」を引用してみよう。

 

「余計なことをあれこれ考えていたら、とっさの対応が遅れて、最悪の場合は死に至る可能性があります。実際、航空スポーツはつねに墜落のリスクとともにあります。そのような一種の極限状態では、われわれの脳は生命維持のために「考える」ことを一時シャットアウトします。そして五感を可能な限り研ぎ澄ましてひたすら風に集中し、風に聴き、最後はすべてを風に委ねるしかありません。考えずただ感じ、そして委ね従うこと。」

 

朝空に風の道あり羊雲の群れは旅立ち東へ向かう

われもまた石像として立ちながら遺跡広場の風に吹かれる

長い長い夕べアジアの果てに来て黒海をゆくタンカー見おり

遺跡あまた残れど時のなき真昼イスタンブールは猫たちの町

神々の大地の引っ掻き傷として道あり 道の行く手雲湧く

風に鳴るゲルに目覚めて肌寒き砂漠の朝の雨に遇いたり

どの道も桜散る道泣きたいのか笑いたいのかもはやわからず

通過者として見ていたり酒瓶を抱きて路上に動かざる人

 

谷岡亜紀といえばやはり旅の歌。

旅を歌うことで獲得したルポルタージュの手法が、パラグライダーを詠むときの冷静沈着な表現に生きている。

1首目と2首目はバルセロナにて。

旅にあっては考えることを停止せずに、むしろ考えを活発化しているようだが、空を見て、風を感じることは忘れていない。

その地の気候風土のみならず、風は人々の生活の匂いも運んでくるからだろう。

3首目と4首目はイスタンブール。「長い長い」には距離のほかに時間、つまり歴史も含まれている。歴史を人々の生活の痕跡として捉えている。

5首目と6首目はモンゴル。5首目はパラグライダーで空を飛ぶことで獲得した視線であろう。視界が大きく開けている。

7首目は熊野を歩いての作。8首目は旅ではないが東京山谷の情景。

「泣きたいのか笑いたいのか」「通過者として見ていたり」この二つのことばに谷岡が旅をする目的と、旅人の立場が集約されているようだ。

 

最後に「黄斑変性」と題された33首からなる連作から4首あげておく。

本書の中で一番の、読むべき連作であろう。

この連作を読みながら人間は所詮この世の通過者に過ぎないのだと思った。

 

網膜に野火の密かに拡がると楕円に歪む月を見上げつ

見納めのはずはなけれど一月のよく晴れた日の海上の鳩

一時間の処置ののちなる窓際に色のなく降る雨を見ており

瞳孔は既に開きて春の昼ゆらりとわれは死者に近付く

 

総目次 1年間で取り上げた本

1月

『昔話』佐藤通雅

『galley ガレー』澤村斉美

「壜」#06

『まはりみち』伊藤冨美代

『峡にふる雪』大西百合子

『ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石』伊集院静

『短歌エッセイ カジン先生のじかん』柳宣宏

 

2月

『冬への割符』福永和彦

『海図』三井修

『奇麗な指』尾崎まゆみ

「木俣修研究」第13号

「牧水研究」第15号

「つばさ」第12号

「歌壇」2月号

『銀河山河』黒田杏子

『恋歌』浅井まかて

 

3月

『菱川善夫全歌集』

『菩提樹のアルト』助川とし子

『湖西線』岩切久美子

『揺れいる地軸』山本司

『山雨』南鏡子

『斎藤茂吉 異形の短歌』品田悦一

『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』佐々木健一

『東北を聴く――民謡の原点を訪ねて』佐々木幹郎

 

4月

『メロンパン』大崎瀬都

『猫の耳』森屋めぐみ

『また巡り来る花の季節は 震災を詠む』佐藤通雅・東直子選

『先生! どうやって死んだらいいですか?』山折哲雄・伊藤比呂美

『100分de名著 万葉集 はじめに和歌があった』佐佐木幸綱

『ほろ酔い文学事典 作家が描いた酒の情景』重金敦之

『LONESOME隼人 獄中からの手紙』郷隼人

『三丁目ハイツの春』渡辺久子

『泥と青葉』小島ゆかり

 

5月

シリーズ牧水賞の歌人たち Vol.5『小高賢』

「GANYMEDE」60

『青き麦なり』中澤百合子

『苺にミルク』森安千代子

林和清『日本の涙の名歌100選』林和清

千葉聡『今日の放課後、短歌部へ!』千葉聡

『桜は本当に美しいのか』水原紫苑

嵐山光三郎『年をとったら驚いた!』嵐山光三郎

吉岡太朗『ひだりききの機械』吉岡太朗

 

6月

『ゆりかごのうた』大松達知

『午前3時を過ぎて』松村正直

『坂』岡部桂一郎

『リアス/椿』梶原さい子

『光の穂先』大衡美智子

『ミセスわたくし』植田美紀子

『万葉集と日本人』小川靖彦

『水のなまえ』高橋順子

 

7月

『ダルメシアンの壺』 日置俊次

『穂水』 山口智子

『月と水差し』 和田沙都子

『明治短歌の河畔にて』 山田吉郎

『漱石「こころ」の言葉』 夏目漱石 矢島裕紀編

『ネバーランドの夕暮』 桃林聖一

『主婦ふふふ』 石田恵子

『青き鉢花』 福留佐久子

『亀のピカソ』 坂井修一

 

8月

『標のゆりの樹』 蒔田さくら子

『さくらのゆゑ』 今野寿美

「1099日目 東日本大震災から三年を詠む」 塔短歌会・東北

『青昏抄』 楠誓英

『茎を抱く』 荒木る美

『この芸人に会いたい』 橘蓮二

『春の庭』 柴崎友香

 

9月

『声を聞きたい』 江戸雪

『雲の輪郭』 高村典子

『鼓動のうた 愛と命の名歌集』 東直子

『微笑』 結城千賀子

『レインドロップ』 大塚亜希

「方代研究」 山崎方代生誕100年 第55号

『旅の人、島の人』 俵万智

『流転の歌人 柳原白蓮 紡がれた短歌とその生涯』

『金田一家、日本語百年のひみつ』 金田一秀穂

 

10月

『黄鳥』 阿木津英

『湖水の南』 齋藤芳生

『現代女性秀歌』 栗木京子

『みなとみらいに歌が咲く 海外日系文芸祭の十年』 小塩卓哉

『逢坂の六人』 周防柳

『八月の耳』 春日いづみ

『一花衣』 守中章子

『光へ靡く』 古志香

『同じ白さで雪は降りくる』 中畑智江

 

11月

『日月集』志垣澄幸

『振りむく人』日高堯子

『子育てをうたう』松村由利子

『水庭』三島麻亜子

『半地下』嵯峨直樹

『無糖の白』佐々木寛子

『塔事典』塔短歌会編

『造りの強い傘』奥村晃作

『きなげつの魚』渡辺松男

 

12月

『流木』高野公彦

『磐梯』本田一弘

『銀色の馬の鬣』岡井隆

『行け広野へと』服部真里子

『桃の坂』竹内由枝

『鯨の祖先』武富純一

『秋の茱萸坂』小高賢

『風のファド』谷岡亜紀

 

以上102冊