前田康子のアーカイブ

花ささぬ瓶(かめ)のごとしと人のいふとも、老づきて独りゐる時のこころの安けさ

浴身のしづけさをもて真昼間の電車は河にかかりゆくなり

半開きのドアのむかうにいま一つ鎖(さ)されし扉(と)あり夫と暮らせり

開張する前翅は十三センチ越ゆるなるドクロメンガタ蛾は鼠の声す

ガス室の跡なりと いう崩れた る煉 瓦昨夜の雨にしめれり

一生を直立歩行と決められて少年がカナリヤの籠さげてゆく

刻んでる音がしてゐるやがて潰れて青いどろどろの現実が来る

吊り皮の手首に脈拍たしかむる寒の迫りてくるはさびしゑ

告知されその名のごとく病み臥して足二本分の崖に立ちゐき

両端に繭をやどした綿棒は選べずにいたわたしのようだ

待つことはある日なくなる 雀がつまめそうに散らばっている

いやべつにああさうだつけ聞いてないそれでいいじやんもう眠いから

携はる放送の仕事の一つにて毒蛾育てゐる室に入りゆく

うさぎの頭ぐいと持ち上げスポイドの薬液垂らす口の裂け目に

杉やにのごと赤ぐろき夕ぐれよ行方不明のひとりみつかる

今日は少し疲れてゐるのハロウィンの南瓜のやうに笑つて見せる

日記繰る手もとに風の吹込みて罌粟の押花破れて飛びたり

草花に目をとめ歩く余生とは秋の空気をふかく吸うこと

こごえたる手に戻る血の熱くして生くるは佳しと孤り思ひつ

おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は

父の待つ昼餉に向かう父の中の母と話をしたくなる日は

大口を開けて己の重たさにうなかぶすダツラの煙雨にそぼつ

人間が行方絶ちしを蒸発と湯気のごとくに言ひし日のあり

朱鷺色のマフラーを解くそのせつなわれの蒸気が空にとけゆく

月面に咲くかも知れずと思ふほど月光に蕎麦の花が照りゐる

七十にして砰(ずり)といふ文字を知りランドセル背負ふごとき嬉しさ

千両も万両もあかく実るなりわれから遠くわれは生きゐる

五種類の薬いつきに飲みたれば絵の具溶くごと胃の腑はあらむ

わが手より三歩駆け出し待っている自動改札茶色い切符

家族の背それぞれ違へど丁度よい高さがありてカレンダー吊す

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