年下の若きからだをおもうときわが指先は草汁に触る

なみの亜子『バード・バード』(2012年)

 

女性による若い男の肉体賛歌である。年下の若い男の体を思うときに、<わたし>の指先は草の汁に触れる、と歌はいう。草取りの場面と読む。素手で草をむしる<わたし>の指は、草の汁で濡れてくる。しゃがんで草をむしりながら草の汁の匂いをかいでいると、ああ若い男のからだが思われる。五句三十一音の端正な歌だ。ことばのつながりは「おもうとき」に「触る」だが、意味の上では、触れるときにおもう、とういうことだろう。起きたことの順序通り、律儀に「触るるときにおもう」などといわない。

 

若い肉体への憧憬と、濡れた指の取りあわせの歌として、一首は春日井建<童貞のするどき指に房もげば蒲萄のみどりしたたるばかり>を踏まえるだろう。春日井作は、具体的な何かを思うとはいっていないけれど、蒲萄の汁に指を濡らす<わたし>が、性愛の対象たる若いからだを思っていることはまぎれもない。

 

さて、現代短歌について私が不満に思うことの一つに、女性作者による若い男(ないし性愛の対象としての女)の肉体賛歌がない、ということがある。二十一世紀初頭の日本では、イケメン僧侶やイケメン宅急便配達男子の写真集出版に象徴されるごとく、女性による男性の肉体鑑賞はごくふつうに行われるものになっている。しかし、短歌にはそういう作品が登場しない。世の中の動きの反映がない。実態とずれている。一方、男性作者による若い女の肉体賛歌制作は、昔から盛大だ。たとえば、上田二三四を見よ。

 

疾風を押しくるあゆみスカートを濡れたる布のごとくにまとふ  上田三四二『遊行』

かきあげてあまれる髪をまく腕腋窩の闇をけぶらせながら  *「腕」に「かひな」のルビ

やはらかき軀幹をせむるいくすぢの紐ありてこの晴着のをとめ

をんなの香こき看護婦とおもふとき病む身いだかれ移されてをり      『鎮守』

 

作者四十代から六十代の作だ。一、二首目は目による観察、三首目は対象を見ての妄想すなわち視姦、四首目は体験による感触、と切り口はバラエティに富む。もしも現実の世界で、会社の部下に「君のスカート、濡れた布みたいに貼りついてたよ」とか「着物の紐って何本あるの。あっちこっち体に食い込んでるんでしょう」などと目をきらきらさせていったら、単なるオヤジのセクハラ発言である。実の世界で口にできないことをいうのが虚の世界、短歌の世界である以上、歌としてはこれでいい、というより四首とも秀歌なのだが、男性作者だけに言いたい放題をさせておく手はないだろう。女性作者による次のような歌があっていい。

 

をとこの香こき看護師とおもふとき病む身いだかれ移されてをり

 

このような切り口の歌が、短歌界にほぼ見当たらないのは、女性作者による自主規制のせいだろう。女がこんなことをうたったらどう読まれるか。うたわない→古い男女観が残る→うたわない、の悪循環だ。

老いほけなば色情狂になりてやらむもはや素直に生きてやらむ   黒木三千代『貴妃の脂』

 

1989年刊行の歌集において、黒木はこう詠った。以後、24年。女性作者たちよ、なみの亜子だけにまかせておかず、自主規制はもうやめて若い男(ないし女)のからだを賛歌しようではないか、と実作者としていいたいのである。

 

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*『バード・バード』は、本年度葛原妙子賞を受賞しております。