病むわれは暗闇の中に立たされて壁泥(かべどろ)のごときものを飲まさる

村野次郎『樗風集』(1938年)

 

『樗風集』は、香蘭叢書第1篇として刊行された村野次郎の最初の歌集。昭和2年(1927年)から10年(1935年)の作品が逆年順に収められている。

巻頭は「病後閑居集」12首。

 

われ病みて留守にせし家(いへ)垣根には山茶花すぎて桃咲いでぬ

鞄より着替(きがへ)を出してゐる縁の明(あかる)きまでに若葉せりけり

癒えて帰ればまひる明き家の中はづみをつけて時計鳴りをり

帰り来しわが家の夕餉弟の家族(うから)もともに来てかこみつつ

うかららと夕餉はとりつ留守の間のことこまごまとききて安らふ

生業(なりはひ)を強ひて忘れて病みしかば世事はなべてわれに遠しも

 

たとえばこうした作品。退院後の、早春の家の情景が、明るく描かれている。「山茶花すぎて桃咲いでぬ」「明(あかる)きまでに若葉せりけり」「はづみをつけて時計鳴りをり」。なんでもない日常の風景が、病後にはうれしい。「弟の家族(うから)もともに」「ことこまごまとききて安らふ」。人びともまたやさしい。

いずれも平明な作品だ。その平明さが村野のよさなのだと思う。平明さは、対象との距離の取り方。近過ぎず、遠すぎず、村野はもの/ことと向き合うのだ。千々和久幸は文庫版(2000年)の解説で「『ソフトフォーカス』は次郎短歌のキーワードだが、自らの歌風を言い当てて妙である」と述べながら、「先生はその頃、『ソフトフォーカス』という言葉をよく使われた。(略)ぼやけた焦点という意味ではなく、柔らかい焦点という意味だった」という神山裕一のことばを紹介している。ああ、なるほど、と思う。村野はソフトフォーカスで構図を決めているのだ。「山茶花すぎて桃咲いでぬ」「弟の家族(うから)もともに」と、フォーカスの芯はしっかりとありながら、一首全体としてはやわらかい。対象との距離の取り方が巧みだから、ソフトフォーカスがとても効いている。

 

病むわれは暗闇の中に立たされて壁泥(かべどろ)のごときものを飲まさる

 

同じ昭和10年の作品「胃腸病院入院」7首のなかの一首。前後には「護謨管に注がれし水病むわれの腹の奥にてさみしき音す(胃洗滌)」「機械には電気なりいでてくらやみに病める胃袋青白く見ゆ(レントゲン室)」が置かれている。「病後閑居集」はこの入院からの回復なのだろう。

やはり村野らしい手触り感の作品だ。おそらく、胃の洗浄をし、X線造影検査を受けたのだろう。そう、あのバリウム検査である。バリウムは飲みにくい。大きなコップ一杯程度の量だが、これがなかなか大変だ。当時と現在では検査のしかたは違うかもしれないが、当時のバリウムは飲みやすかった、ということはないはず。「壁泥(かべどろ)のごとき」という把握が、バリウムの、そしてバリウムに向き合うときの心のありようをうまく捉えている。

「病むわれは暗闇の中に立たされて」。なんでもないようなフレーズだが、構図の確かさが感じられる描写である。