きいんとひきしまつた空へしたたらすしづくは硝酸でなければならぬ

加藤克己『宇宙塵』(1956年)

 

加藤克己は、1915年の6月30日に生まれ、2010年の今日5月16日に94歳で死去した。

硝酸は刺激臭のある無色の液体で、酸化作用が強く、多くの金属を溶かす。化学式HNO3で表される劇薬であり、素人が薬局へ行っても売ってくれない。化学音痴の私が硝酸と聞いて思うのは、去る3月にロシアのバレエダンサーが、顔に硝酸をかけられた事件だ。と思っていま調べたら、使われたのは硝酸ならぬ硫酸だった。歴史をひもとけば、1957年には美空ひばりが塩酸をかけられている。どうも昔から、硝酸硫酸塩酸のたぐいは、名のある踊り手や歌い手の顔にかけられ続けているようだ。

 

<きいんと/ひきしまつた空へ/したたらす/しづくは硝酸で/なければならぬ>と、4・9・5・9・7音に切って、一首三十四音。ひらがなの連なりが目にうつくしい。「きいんとひきしまった空」は、冬の青空だろう。雲ひとつない、金属板のような空。「きいん」が、金属を暗示する。美しさというものの、一つの極まった形としての青空だ。そこに硝酸のしずくをしたたらせなけらばならない、と歌はいう。しずくをたらした空からは、煙があがるだろう。エッチングの銅版に硝酸をかけたら緑の煙が上がって驚いたという、友人の話を思いだす。金属板の空からあがる煙も、緑だろうか。そうあってほしい。冬の青空が噴きあげる緑の煙。日の光の中で、緑の煙はうつくしく輝くだろう。

 

完璧な美に対する破壊衝動の歌だ。そこには鬱屈がある。不安定な精神がある。だが同じ硝酸投与でも、ダンサーや歌手に投与する場合と違って、陰陰滅滅としていない。むしろ爽快だ。怒りや苛立ちがあるにせよ、破壊衝動を詠うことは、対象物に対する一つの賞賛のかたちである。

 

さて、このたび『宇宙塵』を再読し、「加藤克己って、こんなに前川佐美雄に似ていたのか」と思った。いや、佐美雄作品に親しんでいる目にそう映るだけで、克己作品に親しんでいる人の目には、佐美雄の方が克己に似ていると映るのだろう(いつの日か吉野裕之さんに、お聞きしてみたい)。私の克己作品ベスト1は<永遠は三角耳をふるわせて光にのって走りつづける>であり、この歌ともう一つ<あかときの雪の中にて 石 割 れ た>が、加藤克己のイメージだった。ところが『宇宙塵』には、一行の下に前川佐美雄と付いていても違和感のない歌が並ぶ。たとえば、<噴水を霧となびかせ逃げてゆく風の背後のたまらなき青>など、佐美雄の作といわれたら信じてしまうだろう。

 

二人の作品から共に感じるのは、詩精神の自在さだ。明るさ、大らかさ。ことばに寄り添っているだけで、いろんなところへ連れて行ってもらえる感じ。小賢しさがない。ちまちましていない。この共通点は、彼らが作歌過程のある時期にモダニズムを経たことから来るのだろうか。それとも、二人の生来の気質によるものか。

以下、「復讐」「押入れ」「なめくぢ」など、同じことばが使われている作をあげよう。克己作は、『宇宙塵』から。

 

復讐はひとりひそかにゴムの葉にかくれて冷たく企てゆかむ      加藤克己

野にかへり野に爬虫類をやしなふはつひに復讐にそなヘむがため  前川佐美雄『白鳳』

 

人生のふかきかなしみのにほひとも押入れにある夜首をつつこむ  加藤克己

ふと立ちて押入あけてのぞきけりこの暗さにぞ惹きつけらるる    前川佐美雄『植物祭』

*「押入」に「おしいれ」、「惹」に「ひ」のルビ

 

蔵の中でなめくぢどもに取りまかれ古き歴史を読み堪へてゆく  加藤克己

いくつものなめくぢ梅の幹這へり梅の身にならば堪らざらむ    前川佐美雄『捜神』

*「這」に「は」、「堪」に「たま」のルビ

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