潮あかり顫へてとどく岩に寝て燕の誇りをわが誇りとす

春日井建『行け帰ることなく』(1970年)

 

作者は、1938年の12月20日に生まれ、2004年の明日5月22日に65歳で死去した。

春日井建の命日を「燕忌」という。名称は、建の妹森久仁子が2004年に「短歌」(角川書店)の「追悼 春日井建」に寄せた一文に由来する。

以下引用

その日は「今朝は幼い鶯の啼き声がしたね」という会話で始まった朝でした。不意に「ボクの命日、燕忌はどうかなあ」という声がしました。小さな声でしたけれど、はっきりとした言葉でした。私は洗い物の手を休めて兄の方を見ましたがきき返すことができません。兄の視線は、大きな窓の外にあり、燕が翔んでいるのが見えました。再び「燕忌がいい」と自分に言いきかせるように兄は言ったのです。           森久仁子「兄の遺言」(「短歌」2004年9月号)

引用ここまで

 

春日井建は、<わたし>を燕になぞらえて詠った歌人だ。第一歌集『未青年』には、燕の歌はない。第二歌集『行け帰ることなく』の、ショパンに材を取った「燕のため悲哀のため」で、<燕とぶきみ知りし春の燕とぶつつましく一本の樹に寄りゐたり>と初めて燕の歌を書く。そして巻末の「青い鳥」で、上に掲げた一首をはじめ、歌と別れる<わたし>を燕に重ねてじっくり書くのだ。一部を紹介する。

 

岩棚に寝ころぶわれと海つばめ日ねもす無縁に親しみあへり  「青い鳥」

雲の峰猛りはじめし沖へむけてわれの燕は翔びたち行けり

水平に首のべてとぶ海つばめ視野のかぎりは伊良湖の潮

 

このように詠って短歌を去った燕びと建は、父瀇の死により中部短歌会の主宰を引き継ぎ歌に復帰するが、続く歌集において燕の歌はほとんど書かれない。わずかに、第四歌集の『青葦』に<贈らるる誉とおもへわかものの額に燕の青き翳さす>(*「誉」に「ほまれ」のルビ)が、第六歌集『友の書』に<海つばめを友とし島のひと夏をわれ書を読まず物考へず>が、第七歌集『白雨』に<短命を約されし友 はや一年二年は過ぎてけふ玄鳥帰>が見られるだけだ。第三歌集『夢の法則』、第五歌集『水の蔵』に燕の歌はない。

 

事情が一変するのは、第八歌集『井泉』からだ。作家自身の発病を素材にした一連以降、燕の歌、とりわけ燕と<わたし>を重ねる歌が多く書かれるようになり、それは最終歌集『朝の水』へ続く。

 

常に誰かが咳をしてゐる朝まだき窓をかすめてつばめが横切る  『井泉』
*「横切」に「よぎ」のルビ

朝まだき目醒めて想ふあまつばめ天の高処に一生を過ごす *「一生」に「ひとよ」のルビ

生涯をとびつづけゐる鳥といふ天青くして寄り処なけれど

高ぞらの群にまじりて燕一羽不調を告げず翔び立たむとす     『朝の水』

来て帰る、帰りて行くと異ならず漂泊の羽は青波のうへ

好きな言葉のひとつに嚥下のど患めばパンのかけらをふふみ水のむ *「患」に「や」のルビ

噴泉のしぶきをくぐり翔ぶつばめ男がむせび泣くこともある

 

燕の歌の一部をあげた。短歌との別れ、現生との別れに向きあうとき、作者は燕と一体化するのである。つつがなく日常をすごしているときは意識の底にあるものが、非常事態に瀕してあらわれてくるのだろう。歌集による燕の歌の増減を、作者自身はどれほど意識していただろうか。すべて把握して書いていたのかもしれないし、上でのべたような変化をもしも当人に伝えることが出来たなら、案外「ちっとも気がつかなかった」と面白がってくれるかもしれない。

 

<潮あかり/顫へてとどく/岩に寝て/燕の誇りを/わが誇りとす>と、5・7・5・8・7音に切って、一首三十二音。「燕の誇りをわが誇りとす」と詠った人を、その晩年の弟子として誇りとする。

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