外苑の縁の彎曲あゆみをればみどり濃き人ちかづいてくる

前川佐重郎『孟宗庵の記』(2013年)

*「縁」に「へり」のルビ

 

「外苑」は、神社や御所に所属し、その区域外にある庭園を意味する。首都圏には、外苑と呼ばれる場所が、皇居外苑と明治神宮外苑の二か所あり、単に「外苑」というときは明治神宮外苑の方を指す。道路標識に「外苑 出口」などと表記されており、銀座線に「外苑前」という駅がある。「明治」を省いた「神宮外苑」もよく使われる。1982年に東京都が選定した「新東京百景」の一つだ。

 

〈外苑の/縁の彎曲/あゆみをれば/みどり濃き人/ちかづいてくる〉と5・7・6・7・7音に切って、一首三十二音。初夏の日ざしあふれる外苑風景を描いて、気持ちのよい一首だ。「外苑の縁の彎曲」に、まず工夫がある。神宮外苑の敷地内には、球場や絵画館などの諸施設があり、ゆるやかな曲線を描く道で結ばれている。外苑の散歩は、道のカーブに添ってあるくことなのだ。そこをうまく捉えた。「曲線あゆみをれば」ではなく、「彎曲あゆみをれば」としたのもおもしろい。「曲線」は曲がった線のことだが、「彎曲」は弓なりに曲がること、という状態を指す名詞だ。そのため「彎曲をあゆむ」という言い方には、ちょっと奇妙な感じが生まれる。

 

一首の眼目は「みどり濃き人ちかづいてくる」だ。季節は、新緑のころか、あるいは今ごろの梅雨の合間の晴天か。日ざしを受けて輝く緑の中を、〈わたし〉の行く手から通行人が歩いてくる。やがて二人は、緑の中ですれちがうだろう。むろん〈わたし〉自身も「みどり濃き人」だ。そういう状況を、このように表現した。「樹木」や「植え込み」という語はなくても、「みどり濃き人ちかづいてくる」といわれたとき、読み手の前にひろがるのは、木々の緑豊かな風景だ。飛躍のあることばを探る作者である。みどり濃き人とは緑の服を着た人か、と思う読み手がいたとしたら、その人はまだ前川佐重郎のよき読者ではない。

 

漢字の表記を見てみよう。二句「縁の彎曲」の「彎曲」は、現代表記では「湾曲」とされることが多い。作者にとっては「彎曲」でなければならないのだろう。

 

顔面を覆ふマスクにおほはれて朝のホームに竝ぶ無名者  小池光『時のめぐりに』

*「竝」に「なら」のルビ

 

結句「竝ぶ無名者」の「竝ぶ」は、現代表記では「並ぶ」である。小池光にとって、ここは「竝ぶ」でなければいけないようだ。前川も小池も、塚本邦雄のような正字採用者ではなく、現代表記の漢字を使う作者だが、上の歌に見るように、漢字によっては現代表記を採らない。また、二人のような行き方をする作者は少なくない。世の中に目を向ければ、現代表記の記事を掲載する「文藝春秋」は「文芸春秋」ではないし、「讀賣新聞」は「読売新聞」ではない。短歌における表記もそれでよしとする説と、作品中の漢字は正字か現代表記かどちらかに統一すべしという説があり、漢字の問題は一筋縄ではいかない。

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