内藤 明『夾竹桃と葱坊主』(2008年)
食卓に茄子とゴーヤと皿があり写生されたるかたちのままに
百年にただ一度だけ咲く蘭と教へられしがそこここに咲く
ちぎれたるビニール絡む鉄条網視線は越えて夏野に遊ぶ
朝顔の枯れたる花を摘みにゆく記憶はとほき庭の黒土
わたつみに照り翳りする午後の陽を身籠りし人と遠く見てゐき
内藤明の歌集『夾竹桃と葱坊主』はこんな5首ではじまる。理/情、重/軽、世界/自己といったもの/ことのバランス、その巧みさを思う。それは、日常への向き合い方のこと。
「『夾竹桃と葱坊主』は、タイトルを思案しながら玄関を出たところ、一本の夾竹桃の紅い花が目にとまり、また道路を隔てた畑に、坊主となりはじめた葱が四列に並んでいるのが見え、これだと思って題とした」と、あとがきにある。それが内藤らしさなのだ。
昼間見し埴輪の馬が過(よぎ)りたり雨の匂ひはいづこより来る
逃げまどふ子らをとらふる映像の静止するとき箸を置きたり
くすくすとわらふ櫟(くぬぎ)の下をゆく少女の群に少し遅れて
たつぷりと冬の光を浴びて来しマフラーが今椅子の背にあり
交差路にともに在ること能(あた)はねば車は人を跳ね飛ばしたり
たつぷりと眠りたる朝地に立てば開かれてゆく皮膚も葉つぱも
食卓のポットの陰にほほゑみて神のいませば目を瞑りたり
内藤は、複数の角度をもって日常から素材を拾っていく。それが、一冊全体をとても豊かなものとしている。
忘られし帽子のごとく置かれあり畳の上の晩夏のひかり
畳の上の晩夏のひかりは、忘れられた帽子のごとく置かれてあるという。「忘られし帽子のごとく」。うまいなあ、と思う。夏から秋に季節が変わっていくとき、毎年のことだけれど、だからこそこれまでの思い出があって、そしてまた思い出がひとつ加わることに、意識するかどうかは別として、私たちの心はさわさわとする。「帽子」。それは、自身が被っていた帽子だろうか。そう、一日が今よりもっともっと長かった頃に。あるいは、若かった母が被っていたそれだろうか、凛々しい祖父が被っていたそれだろうか。
「置かれあり」。この三句が、一首を大きなものにしている。「晩夏のひかり」を置いた主体へと、私たちの思いが広がっていく。それは何か。それは誰か。もちろん、わからない。わからないけれど、その存在を思うことが、喜びなのだ。