小野興二郎『天の辛夷』(1978年)
学びたしと思ふ日暮をさむざむと炭焼く母がよごれ帰り来ぬ
東京に学ぶわれのため伐られたるかの山が見ゆ畑打ちをれば
てのひらに握りしめたる闇いまも出立の日の戦慄(をののき)去らず
小野興二郎の最初の歌集『てのひらの闇』(1976年)には、たとえばこうした作品が収められている。人は時代や土地に生きている。違った時代、違った土地であれば、別の人生や日常を生きることになる。しかし、それがどのようなもの/ことなのか、誰もわからない。わかっているのは、「いま・ここ」で生きているということ。「いま・ここ」をいかに親しく、深く、自らのもの/こととして受け止めるか。だから、問われるのはそのことだと思う。
小野は、親しく、深く、「いま・ここ」を受け止める。だから、一首一首の輪郭が鮮明なのだ。
興二郎(こうじろ)に酒を沸かしてやれやといふこゑさへすでに衰へましぬ
遠山の木の間がくれの辛夷の花こゑあげて泣きしのちの眼に見ゆ(詞書:父逝く)
母を率(ゐ)て旅行く島にバスを待ついま母ひとり母の子ひとり
『天の辛夷』から引いた。父がいて、母がいて、〈私〉がいる。この当たり前のことが、「いま・ここ」としてある。「いま・ここ」は、ただひとつのもの/こととして、ただひとりの〈私〉の前にある。小野は、謙虚にことばを紡いでいく。
梢(うれ)たかく辛夷の花芽ひかり放ちまだ見ぬ乳房われは恋ふるも
辛夷は、モクレン科の落葉広葉樹の高木。早春に他の木々に先駆けて、白い花を梢いっぱいに咲かせる。地方によっては、この花が咲く頃に農作業を始めるので田打ち桜とも呼ばれる。春の訪れを告げる、明るい花だ。
「梢(うれ)たかく辛夷の花芽ひかり放ち」。詠まれているのは花芽だから、まだ冬。その透明なひかりを浴びながら、輝きを見せているのだろう。「ひかり放ち」が鮮やかである。6音の響きが、花芽の様態を巧みに捉えていると思う。そして、柔らかに下句に接続していく。「まだ見ぬ乳房われは恋ふるも」。何とストレートな表現だろう。ストレートな明るさが、小野のものなのだと思う。
木には木の言葉のありてこの夜も星美しと言ひあひてゐむ
『森林木語』(1992年)のなかの一首である。ストレートな明るさは、年を重ね、こうした静かな表現になったのだろう。しかし変わらないのは、素朴さというと違うかもしれないが、「いま・ここ」を受け止める精神のありようだと思う。「言ひあひてゐむ」がやさしい。