繁みたてる梢をこむる朝もやの白きが中を鳥翔けりゆく

玉城徹『われら地上に』(1978年)

*「繁」に「し」の、「翔」に「か」のルビ

 

玉城徹は、1924年5月26日に生まれ、2010年の今日7月13日に86歳で死去した。

 

〈繁みたてる/梢をこむる/朝もやの/白きが中を/鳥翔けりゆく〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。私にとっての玉城徹ベスト作品だ。

 

繁み立つ枝々がある。そこに朝もやが籠っている。白い朝もやだ。その白い中を鳥が飛んでゆく。初句から読みくだすにつれ、景がしずかに立ちあがってくる。なめらかに連なることばとことば。初句「繁みたてる」の「シ」で鋭く詠い起しつつ、すぐに「梢をこむる」とオ、ウ音によって響きをくぐもらせ、「朝もやの」の「アサ」で明るく広げ、ふたたび「白き」「鳥翔けり」とシ、リ音を鋭く響かせる――。黙読を重ねると、ひびきの快さはこうした音の組み立てによるのだとわかる。韻律の緩急に、景の変化が寄り添う。

 

繁みたつ、こむ(籠む)、翔ける。作者は古語を多用する。どれも古事記や万葉集に使われていることばだ。慣れない者が使えば取ってつけたようになるが、古典に慣れ親しんだ者の手にかかれば、ジグソーパズルのピースさながら、しかるべき場所にぴたりと嵌まる。玉城作品を読む楽しみの一つは、品位ある文語表現に触れることにある。

 

「梢」と書き、「鳥」と書く作者は、それが何の木や鳥なのか特定しない。表現を抽象化して、歌の場面に象徴性を与える。「鳥翔けりゆく」というフレーズで、景を物語化する。歌の素材となった現実の風景は、あるいは、雨上りのぐちゃぐじゃの泥道であり、やぶ蚊が発生するもやであり、悪声で鳴いて飛ぶ鵯だったかもしれない。しかし、〈繁みたてる梢をこむる朝もやの白きが中を鳥翔けりゆく〉とことばでいったとたん、そこにあらわれるのは、神々しさを帯びた景色だ。

 

玉城徹の歌には、艶なるものがある。それが読者の私を惹きつける。官能の匂いはどこから来るのか。死の三か月前、この人は高校教師時代の自分について、落ちこぼれた生徒の間で評判が良かっただろうと書き、続けてこう書いた。「わたしは、恋愛沙汰の絶えたことのない者、いつも女性に惚れているという男だからである。それでも、自分では、それで仕方がない――いや、本来そうあるべき者だなどと思っている」(『左岸だより』「左岸だより」第七十回)。なかなかの文章だ。格好のつけ方がさまになっている。「いつも女性に惚れているという男」が書いた歌。それが玉城の歌なのである。

 

いい添えれば、玉城徹の散文と韻文による『左岸だより』(2010年 短歌新聞社)をまだ読んでいない人は幸いだ。少なくともまだ一つ、人生に楽しみが待っている。

 

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