生業はのどぼとけかも声に打ち人を打ち赤くなるのどぼとけ

坂井修一『縄文の森、弥生の花』(2013年)

*「生業」に「なりはひ」のルビ

 

「生業」と書いて、「セイギョウ」とも読み、「ナリワイ」とも読む。生活をしていくための仕事だ。ルビがなければふつう「セイギョウ」と読むだろう。歌では「ナリワイ」」と読ませたいので、ルビをふった。

 

「なりはひ」。いいことばだ。漢字語にくらべ、大和ことばは観念くさくない。手垢にまみれていない。「独身」の大和ことばを使った、津野海太郎著『歩くひとりもの』を思う。

 

〈生業は/のどぼとけかも/声に打ち/人を打ち赤く/なるのどぼとけ〉と5・7・5・8・7音に切って、一首三十二音。初句、「生業」と単刀直入にいく。その勢いのまま「生業はのどぼとけかも」と二句で切り、〈わたし〉の生業はのどぼとけだと宣言する。生業がのどぼとけとは、どういうことか。声で打つことだ、と歌はいう。何を? 人を。声で人を打ちつづけて〈わたし〉ののどぼとけは赤くなる。とぼけた言い回しに、読み手の頬はゆるむ。対象をつき放して見るところに、ユーモアが生まれる。

 

正確にいえば、喉仏は声を作る器官ではない。喉仏自体は骨であって、声を作るのは、その骨の内側にある声帯だ。声の代名詞としては「のど、のみど」がよく使われる。だがそうかといって、「生業はのみどなるかも」「生業はのみどなりけり」と愚直にのべてはつまらない。せっかくの「なりはひ」が台無しだ。声を出すのは「のどぼとけ」だと言い放ったところが、表現の工夫なのである。どうです、お気に召しましたかと、作者は結句にふたたび「のどぼとけ」を置く。

 

のどが赤く腫れるほど声で人を打つ仕事とは、何だろう。喧々諤々の、人身攻撃もいとわぬ議論をする仕事。そんな職務が思われる。歌集の中では、この歌の次に〈もの言ひてひと切るや言はず去らしむや 鏡にうつるわがのどぼとけ〉があるので、組織の人事権を持つ業務とも読める。また歌集の別の場所には、〈学も芸も炎上をして三十年 絶対矛盾の坂井修一〉という歌があり、作品世界の〈わたし〉と、作者である坂井修一が限りなく重なることを示す。

 

「生業」は、歌集の「あとがき」にも登場する。作者自身の生業を語る一節において、「セイギョウ」と読むだろうそれは、「学ぶ立場が教える立場になり、研究室も新しいビルに引っ越した」「コンピューターの学者」である。「生業では」これこれの本を出し、これこれの評価を得た、という報告も記されている。むろん作者は、そんなに生業のことをいいたいのかといわれるのを百も承知で記しているのであり、外野の声を歯牙にかけずわが道をゆくこの明るさ、前を向いて歩む姿勢は、ひとり坂井修一のものである。

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