海を過去、空をその他とおもひつつ海上飛べる鷗見てをり

原賀瓔子『星飼びと』(2011年)

 

「海を過去、空をその他とおも」うとは、大胆にして人を食ったいいぐさだ。海を過去と思うなら、空は未来か現在と思うのがふつう、というか、ことばの組み合わせとして釣り合いの取れた思いのはせ方だろう。そこを「その他」と不均衡にいく。こんなことをいうのはどんな人か、と読み手に思わせるあたり、この第一歌集の作者はなかなかのくせ者だ。

 

〈海を過去、/空をその他と/おもひつつ/海上飛べる/鷗見てをり〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。いま〈わたし〉は海に来ている。さっきまで射していた日は、雲のうしろに隠れてしまった。どんよりした空の下、沖の方を鷗が飛んでいる。それを見るともなく見ている〈わたし〉の前に、みどり深く広がっている海。この海は、〈わたし〉の過去だ。それにくらべれば、海の上に凡庸にひろがっている空は、所詮その他のどうだっていいことにすぎない。
過去。〈わたし〉の大切なもの。〈わたし〉のすべて。

 

「過去」と「その他」という組み合わせが、こうした読みをみちびく。もしも組み合わせが「未来」と「その他」だったら、〈海を未来、空をその他とおもひつつ海上飛べる鷗見てをり〉という歌からは、まるで違う景色があらわれるだろう。いずれにせよ、「その他」という語のとぼけた使い方が、一首の読みどころだ。

 

投票日、風邪に寝ねつつ暮れたれば日本国のヒモのここちす

 

作者のそらとぼけぶりは、こんな歌にも発揮される。「日本国のヒモ」なのだから、国政選挙だ。衆院選か参院選か。選挙権を行使しないことに罪悪感を持つ真面目な気分と、「あら日本のヒモになっちゃった~」というおちゃらけた気分が同居する。むろん、女性の作者が「ヒモ」の気分になるところが眼目だ。

 

なお、歌集冒頭にはつぎのような断り書きがある。

「本歌集は旧仮名遣いですが、促音と拗音のみ現代仮名遣いのままポイントを下げてあります」

 

吾亦紅かかへて歩く夕まぐれ枯れてしまへばこっちのものさ

 

「こつち」ではなく、「こっち」と表記する。旧かなづかいの作者の歌には、ときおり、小池光〈ぱらぱらっ、と棕櫚の葉をうつ音がして玄関先に雨到来す〉(『時のめぐりに』 *「雨」に「あめ」のルビ)、高野公彦〈生ビール飲むや臓腑のくらやみに波ひろがれり づわん しゅわある〉(『水苑』)など、その一首だけ小さな「っ」や「ゅ」が使われることがある。

原賀のように最初から自作のルールを決めておくのも、一つのやり方だろう。

 

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