上村典子『開放弦』(2001年)
「絹のような細やかな肌ざわりの言語感覚。存在の希薄・脆さ・欠落、それゆえの輝き。充足。しかし背反のままではなく、柔らかく靭く見つめ溶け合う作品の空間。ここには若い女性の、確かな現代がある」。上村典子の最初の歌集『草上のカヌー』(1993年)の帯に置かれた、武川忠一のことばだ。
靴下をそつと素足にはかすごと芽吹きはひくく野に満ちゆきぬ
たとえばこんな一首。武川のことばそのものの一首だと思う。それから8年ほどを経て、歌集『開放弦』は上梓される。
九月来て睡り旨しとひねもすを背骨をはづし丸まるわれは
まひまひが仮眠してゐるひるさがり葉影にすももゆつくり太る
鎌倉市雪の下なる木犀堂古書奥付に朱の印ともる
スェーターを両腕のばしたかくして脱ぐとき冬の球根かたし
くだものの実りのやうなこゑあればしづめて満つるみづなりわれは
日常というもの/こととの距離のとりかたに無理がなく、とても心地よい作品たち。「歩くことや食べること、働くことや眠ることなど、人のおこないのあらゆる部分に柔軟なことばを添わせたい」。上村は、あとがきでこのように述べる。
剃られたる襟首冬の径を行きもう触れてはならない弟がゐる
おとうとと左右(さう)に坐りて連弾のあのころひと日ゆつくり過ぎき
吹きさらす鼻梁となりて病むひとのむかし穂高の雪を攀りき
あなたの耳に頬あててゐる十七時河岸のつめたさあなたは持ちて
男といふはしづかな陶器冬部屋に日なた日かげを容れてつめたし
ひとひらの置手紙ある朝なり皿白く輝(て)り誰もをらざり
弟と夫を詠んだ作品を3首ずつ引いた。甘やかでありながら、知的な、そんな作品だと思う。「自らを開放して他者を容れ、ささやかながら響きあっていたいという私自身の願いをこめた」。上村は、『開放弦』というタイトルについて、あとがきにこのように記している。
弟と夫。それは愛情の対象となる他者である。だからこそ甘やかなのだが、甘やかなだけでは響きあうことはできない。上村はそれをよく知っている。
客去れば椅子を二脚にもどしゆくしろき陶片のごとき陽のなか
「客去れば椅子を二脚にもどしゆく」。来客があり、食卓でお茶を飲んだのだろうか、あるいは食事をしたのだろうか。日ごろは二脚しか置いておかないのだけれど、来客用に一脚か二脚用意したのだろう。そして片付ける。たったそれだけのこと。そう、それだけのこと。しかし、「しろき陶片のごとき陽のなか」は、ふたりであるということを強く意識させる。
ふたりであるということ。それは、ひとりであるということより、あるきつさをもっている。ひとりであれば生じないもの/ことが、ふたりであれば生じてしまう。むろんプラスのエネルギーをもったもの/ことも少なくないが、マイナスのエネルギーをもったもの/ことも同様に少なくない。そのきつさが、「しろき陶片のごとき陽のなか」に滲んでいるように思う。「もどしゆく」と「しろき」のひらがな表記が、上村の穏やかな精神のありようを示している。