いとけなく泣きて帰りし裏の辻今病む父を尋ねゆく道

古谷智子『神の痛みの神学のオブリガード』(1985年)

幼いころをふりかえると、泣いた記憶はいつも鮮明だ。
悔しくて、悲しくて、腹が立って泣きながら帰れるのはせいぜい10歳くらいまでだろうか。
それはついこの前のような気がするけれど、もうずいぶん時間が経ってしまったということにおどろきながら、病み臥す父を見舞う今を享けいれる。

いっぽうでこの歌、みずからのことを詠んだ歌かどうか、はじめ疑問があった。
というのは、あどけなく可愛らしいという形容詞「いとけなし」を自身に使うだろうかと、ふとかんがえたからだ。
しかし、もしこの歌が家を出た子どもの歌であるなら「尋ねゆく道」という結句は、<尋ねくる道>となるだろうから、やはり、これは作者自身のことなのだろう。

きっと、今歩いている道を泣きながら帰った少女は、自分でありながら、未知の物語のなかに棲む少女のようにおもえるのだ。
はるかに遠い、まぶしい過去の記憶のなかにいるのは、自分ではない気がするときがときおりある。

歩きながら、深い時間のトンネルをくぐっているのだろう。
トンネルを抜けると、しずかな愛すべき「今」、そして、父がいる。

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