歳月の中にそよげる向日葵の幾万本に子を忘れゆく

秋山律子『ある晴れた日に』(2009年)

向日葵はキク科の一年草。
周辺に黄色い舌状花、中央部に無数の筒状花を配した頭状花序は、ロシアヒマワリの場合、直径60cmに及ぶこともある。
向日葵は、太陽の動きを追ってその花の向きをかえる、とよく言われ、日本語でも中国語でも、フランス語でも花の名はそのことに由来している。
成長期には、昼のあいだ日光を追い求めて西へ茎をめぐらせ、日没後東へ戻ることを繰り返し、つぼみをつける頃には昼のあいだの運動は次第にちいさくなり、花の咲く頃にはみな東を向く、という説もあるが、実際にはいろんな向きをむいて咲いているような気がする。

ひとが一生のあいだに、目にする向日葵は何本くらいだろう。
通りすがりに見るものもふくめれば、幾万本というのは誇張とはいえない数字だ。
生涯の歳月の中で出会った幾万本の向日葵。
その幾万本が一面に咲いている風景、を作者は幻視する。
それはきっと、多くの読者が目に浮かべることのできる幻である。
マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが戦争に引き裂かれた悲痛な運命を演じた映画、『ひまわり』に出てくる地平線までつづく広大な向日葵畑を思い浮かべるひとも多いだろう。

子を忘れゆく、の子とは誰か。
主人公の母が、子である主人公を忘れてゆく、或いは、忘れてきた、という痛みがおそらく一首の原点にはある。
しかし、もっと普遍的な人間の生のかなしみが詠われていると読むこともゆるされるはずだ。
ひとの寿命がのびて、自分のことがもう誰だかわからなくなってしまった肉親と一緒にくらすことはめずらしくなくなった。
自分自身もまた、そんなふうに老いてゆくのかもしれない。
そうした普遍的なかなしみが、茫茫とまぶしい歳月のひかりにつつまれて詠われているようで、こころをうたれる。

歌集全体を読むと、作者の人生にも、戦争が大きな影をおとしていることがうかがわれる。
揺れやまぬ幾万本の向日葵。
そのまぶしさの向こうに忘れられた子供たちにも、ひとりひとりにながい人生があったのである。

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