道路脇の怒りの爆発、路上の会話の拒否、松林の無言、 

リディア・デイヴィス作・岸本佐知子訳『ほとんど記憶のない女』(2005年)

 

「短歌」「俳句」「詩」など、言語表現におけるジャンルの境界線について考えてみたい。境界はどこにあるのだろうか。

 

上に掲げた一行は、「ピクニック」と題される作品の冒頭部分だ。リディア・デイヴィスは1947年生まれのアメリカ合衆国の作者。英語の原文を、翻訳者の岸本佐知子がこのような日本語にあらわした。短歌として書かれたものではないが、取り出したこの一節は、ちょうど短歌一首ぶんの情報量と音数を持つ。いま強引に、短歌として読んでみれば、〈道路脇の/怒りの爆発、/路上の/会話の拒否、松/林の無言、〉と6・8・4・8・7音に切って、三十三音。タイトル「ピクニック」から考えると、抽象語を使って語られるのは、ちょっと悲惨なピクニック風景という印象だ。
ここに、次の二行が続く。

 

古い鉄橋を渡りながらの無言、水の中の歩み寄りの努力、

平らな岩の上の和解の拒絶、急な土手の上の怒声、草むらの中のすすり泣き。

 

こちらも強引に短歌読みしてみる。〈古い鉄/橋を渡りな/がらの無言、/水の中の/歩み寄りの努力、〉と5・7・6・6・9音に切って、三十三音。〈平らな岩の/上の和解の拒絶、/急な土手の/上の怒声、草むらの/中のすすり泣き。〉と7・10・6・11・8音に切って、四十二音。ぎくしゃくした句跨りながら、どちらも短歌として読めなくはない。ということは、もしも、

 

道路脇の怒りの爆発、路上の会話の拒否、松林の無言、

古い鉄橋を渡りながらの無言、水の中の歩み寄りの努力、

平らな岩の上の和解の拒絶、急な土手の上の怒声、草むらの中のすすり泣き。

 

という三行を、一切の説明抜きで短歌連作として差しだされたら、読者は短歌として受け取るだろう。こんなのは短歌じゃない、と文句をいう人はあまりいないかもしれない。となると、いっそ最初からこの日本語文を、「短歌」と名乗らせたらどうか。作者が了承すればそれも可能だ。いやとんでもない、「短歌」になどしたくない、と作者はいうだろうか。
じつは、翻訳の文章には改行がない。上の改行は、私が便宜的につけたものだ。

 

道路脇の怒りの爆発、路上の会話の拒否、松林の無言、古い鉄橋を渡りながらの無言、水の中の歩み寄りの努力、平らな岩の上の和解の拒絶、急な土手の上の怒声、草むらの中のすすり泣き。

 

これが実際の翻訳文だ。そして、「ピクニック」と題された「小説」の全文である。合計百八音の短編小説。どれだけ短くても、「小説です」と差し出されればそれは小説なのである。もしもこの作品が「詩です」と差し出されていたら、詩として享受されただろう。「小説」と名乗れば小説になり、「詩」と名乗れば詩になり、「短歌」と名乗れば短歌になる。そういう作物を前にすると、ジャンルの境界なんていうものは、果たしてあるのかどうかよくわからなくなってくる。あなたはどう考えるだろうか。

なお、短さにかけては、デイヴィスと同じアメリカ合衆国の作者ブローティガンも負けてはいない。

 

「サンノゼの一間きりのアパートでヴァイオリンの稽古をする男と住むのは、ひどい難儀なのよ」空っぽの拳銃を手渡して、彼女は警察にそういった。

「スカルラッティが仇となり」リチャード・ブローティガン作藤本和子訳  *ルビは省略

 

『芝生の復讐』に収録されたこの作品は、合計七十四音の「小説」だ。

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