秋陽さす空の港に集ひゐるつばさ拡げしままの巨鳥(おほとり)

高島 裕『嬬問ひ(つまどひ)』(2002年)

 

「ふるさとを離れてゐたときも、私はいつも、この場所から歌つてゐたのだと思ふ。そしてこの先も、この場所からしか歌ふことをしないだらう。ひとが表現へと向かふ必然は、おのれが生きてゐることの偶然を、かぎりない驚きをもつて見つめつづけることによつてだけ、保証されるからだ。」

 

高島裕は『廃墟からの祈り』(2010年)にこうしたフレーズを置く。静かだと思う。静かさとは力だと思う。

どこに立っているのか。どのように立っているのか。短歌に限らず、あらゆる仕事において、私たちはこうした問いに自覚的であるべきだが、そうある人は少ない。

 

CDウォークマン熄みたるのちを吹きわたる疾風のなか、われは鷲(イーグル)

嗤ふ者は嗤へと思ふ千の夜の底ひを踏みてわれは祈りき

やがてしづかに君を忘れてゆくだらう春、ももいろの花に会ふころ

捕獲せよ 真夜とめどなき雨のなかふかくよごれて息づく者を

助けを呼ぶは助かりたいとふこころゆゑそのかすかなる温(ぬく)みへ疾る

獣園にひかりただよふ午後なれば紛れなく添ふ影をよろこぶ

踊子のゆびことごとく夕空をまさぐるやうにそよぎはじめぬ(詞書:午後六時半)

 

硬質の知性が形づくる文体。つまり、知の力によって世界と関係を結ぼうという意志。その佇まいが美しい。それを支えているのは情。知と情は相反するものではない。情に支えられていない知はもろい。知に関わらない情は意味がない。知と情のバランスをどう取るか。高島は、わかっている。

 

秋陽さす空の港に集ひゐるつばさ拡げしままの巨鳥(おほとり)

 

空港は、多くの人やものやことが通過していく、とても現代的な場所だ。それは、技術が保証している。

技術。多くの人にとって、しかしそれは、リアリティをもたない。ある空港からある空港へ移動するとき、自身の身体がどのような状況にあるのかをわかっている人はほとんどいないだろう。にもかかわらず、たとえば、飛行機の小さな窓に映る風景を疑う人はいない。それはとても危険なことだ。リアリティをもたないもの/ことを肯定することの危険。

「秋陽さす空の港に集ひゐるつばさ拡げしままの巨鳥(おほとり)」。初句から結句へゆったりと流れる韻律。秋陽さす空の港に集っているのは、巨鳥なのだ。けっして飛行機という技術ではない。「つばさ拡げしままの巨鳥(おほとり)」。それは、意志だろう。

技術と意志。散文は技術を捉え、韻文は意志を捉えるのだと思う。

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