夜となる空気が甘し鉄塔をのぼりゆく人の足裏見えつつ

真鍋美恵子『羊歯は萠えゐん』(1970年)

 

真鍋美恵子は、1906年1月18日に生まれ、1994年の明日9月29日に88歳で死去した。

 

鉄塔をのぼる。このことばに立ちどまる。坂をのぼるとか、山をのぼるとか、階段をのぼるとか、「のぼる」ということばはいつも快く私の耳を打つが、鉄塔をのぼる、ということばはとりわけ快く耳を打つ。そこにはスリリングなひびきがある。いや、スリリングというなら、「のぼる」ということば自体がすでにスリリングだ。
のぼる。
上の方へのぼる。さらにのぼってゆく。
その先には何があるか。
重力に逆らってずんずんのぼっていけば、そこで起きるのは、二つに一つだ。
落ちる。または、消える。墜落か消滅か。墜落の代表は空をのぼったイカロスであり、消滅の代表は映画「ピクニックatハンギング・ロック」の、岩にのぼって神隠しにあった少女たちだ。「のぼる」の反対語は、「落ちる」か「消える」なのである。
いま歌のなかで鉄塔をのぼってゆく人は、このさきどうなるのだろうか。

 

〈夜となる/空気が甘し/鉄塔を/のぼりゆく人の/足裏見えつつ〉と5・7・5・8・7音に切って、一首三十二音。結句の「足裏」は「あうら」と読んだ。三句以下のフレーズが、倒置されている。順当な語順は〈鉄塔をのぼりゆく人の足裏見えつつ夜となる空気が甘し〉だろう。夕刻の道をゆく〈わたし〉が、鉄塔の前にさしかかってふと見上げると、のぼってゆく人が見え、その人の靴の裏が見え、そのとき夜に近づいてゆく空気の甘さが感知された、と歌はいう。

 

のぼる人の足の裏が見えるのだから、〈わたし〉は鉄塔の真下に近い場所にいるはずだ。しかし見えるとはいっても、日がとっぷり暮れてしまえば、のぼる人の姿は夜間照明の助けなしでは捉えられない。歌の場面は、完全な夜になるまでにはまだいくぶん間があるひとときなのだろう。

 

「夜となる空気が甘し」と作者は詠い起こす。「甘い」は、使ったとたん歌が甘くなる要注意語だが、ここではうまく働いている。「鉄塔をのぼりゆく人」の具体的な表現と、「足裏」という一歩踏み込んだ観察が、一首のバランスを保つ。

 

足の裏を見せて鉄塔をのぼる人がこの先どうなるかは、読者の想像にゆだねられている。のぼりつづけて夜空に消える、と私は読む。空気がしきりに甘く感じられるのは、人がひとり空に消えてしまう夜だからにちがいない。

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