「夕顔の苗は残つてゐますか」とFAXを送る 地下街の花舗へ

松平修文『蓬(ノヤ)』(2007年)

 

雲の群れが低し 虫のこゑ充ち充つる高原の無人駅に着きたり

夢のなかでも僕は疲れてゐて地下の水族館へ行くバスに乗る

近道をして葡萄畑を帰るとき冷えし夕闇は肺に充ちゆく

窓外の裸木たちを星が飾り、きみは何を食べてゐるの その美しい口で

いまも父が森の別荘にゐるやうな気がする ほととぎすが啼いてゐるやうな気がする

少年でなくなつた僕のところへは日が暮れても魔女が来ることはない

もう死ぬなんて言はないだらう 今日そのひとが庭に葡萄の樹を植ゑたので

沼をめぐる少年の捕虫網きらきら ばつたきちきち 風はざはざは

僕の犬が吠えるので先をゆく女(ひと)が夕立に消えかかりながら振り向く

石階にてすれ違ひし少女は夜の街へ下りゆく 新しい神話のやうに

 

松平修文の作品を読むと、私はいつも不安になる。私が分解されていくような、そんな感じがするのだ。意味を追っていくことは可能だ。イメージを組み立てていくことも可能だ。しかし、これらの作品に対して、そうした行為が無意味であることを思うのだ。どうすればいいのか。そう思うと、不安に包まれてしまう。

不快ではない。リアルであることも受け止められる。そう、リアルであること。おそらく、意味やイメージを媒介としていないのだと思う。いわば、ことばがことばだけでリアルを掴んでいるのだ。むろん、意味やイメージが一首を支えることもある。しかし、松平はそれを期待していないのではないか。

私たちは、日頃、メッセージを意味やイメージに置き換える。置き換える必要のないメッセージに出会うと、だから私が分解されていくような感覚がするのだろう。

 

「夕顔の苗は残つてゐますか」とFAXを送る 地下街の花舗へ

 

夕顔がウリ科の植物かヒルガオ科のそれ(ヨルガオの別名)か特定できないが、意味やイメージの置き換えがしやすい、また5・7・5・8(あるいは7)・8の音数の、比較的穏やかな一首だ。しかし、私は不安に包まれてしまう。「FAXを送る」というフレーズによって。

「FAXを送る」。文書で確認しなければいけないほど複雑な内容の問い合わせではないから、FAXより電話のほうが一般的だろう。かけて通じなかったとしても、しばらく経ってから、あるいは翌日にでもかけ直せばいいはずだ。

電話は双方向、FAXは片方向。電話ならばすぐ答えを聞くことができるが、FAXならば返信を待たなければいけない。そう、待たなければいけないのだ。おそらく、松平は待つことによって見えてくるもの/ことを待っているのだ。

手間をかけ、つまり必ずしも合理的、効率的ではない方法によって見えてくる何か。それは、既存の秩序とは異なるニュアンスを纏っているはずだ。だから、不安に包まれるのだ。そう、私=既存の秩序が分解されていくような不安に。

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