川本浩美『起伏と遠景』(2013年)
*「描」に「か」のルビ
作者は、1960年に生まれ、2013年の2月1日に52歳で死去した。『起伏と遠景』は、この男性歌人が籍を置いていた結社「短歌人」の有志によって、作者の死後に編まれた。第一歌集にして遺歌集である。
川本浩美の名を、これまで私は、歌人というより歌集装幀者として記憶していた。谷村はるか『ドームの骨の隙間の空に』(2009年 青磁社)を手にとって以来のことだ。ライトブルーの地に、白線の童画的タッチで広島の原爆ドームが描かれている。社会批評性のある重い作品内容に、思いきりさわやかな装幀を合わせており、印象に残った。冒頭に掲げる一首におのずと立ちどまったのは、こうした経緯のせいかもしれない。
〈《様式》の/まにまに花を/描きいそぐ/ガッシュの赤が/すこし足らぬに〉、と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。〈わたし〉はある様式に添って、花の絵を描きいそいでいる。ガッシュ絵具の赤が少し足りないのだが。
キザに決まった一首だ。
まず「〈様式〉」がキザだ。初句でいきなり抽象的観念的に出る。短歌定型の「様式」に重ねている。絵を素材にしているが、短歌のこととしても読むように、というメッセージだ。「〈様式〉のまにまに」。フレーズがぴりっと決まる。
「描きいそぐ」がキザだ。いそぐのは、仕事量をこなすためだろうか。趣味じゃないんだ、これで食ってるんだ、たらたらやってられないんだ。〈わたし〉のそんな声が聞こえる。
「ガッシュの赤」がキザだ。たぶん絵を描く人には、「ガッシュの赤が足りない」がどういうことか具体的にわかるのだろう。そうでない読者は、「ガッシュ」という響きのよい専門用語を味わえばよい。
「すこし足らぬに」の、「足らぬに」がキザだ。三句で「いそぐ」と加速しておいて、「足らぬに」と言いさしでブレーキを踏む。短歌の定石をふまえる。「足らぬに」が「足らぬを」でないのは、二句「花を」の助詞との重複を避けるためだ。
初句から結句まで、これだけキザがつらなった歌も珍しい。それでいて嫌味がないのはさらに珍しい。花の絵を詠んだ歌として、玉城徹〈花にのみあえかなる色施しし鉛筆書きの朝顔に対す〉(『樛木』)を、思いおこす。
歌集の中に、キザな歌はじつは少ない。ことばの斡旋と脱力ぶりに、同じ結社の小池光と通じるところがある。たとえば、収録作〈ふる雨に池のおもてにゴムまりのひとつの色はかがやき浮かぶ〉、〈よれよれの昼寝の夢にみちばたに蒲団を敷いて寝てゐたりすも〉などは、下に小池光という名前がついていたら、信じてしまいそうだ。
さらりと詠うすべを知っている作者である。惜しい人を亡くした、といいたくなる歌が多い。
100ミリの豪雨の中を「川を見に」行かむこころのしたしかりけり
観覧車赤くおほきく見えしとき花指すごとく指は指したり
吊り革のあたりまよへる花虻は近江のくにへゆきて死ぬらむ