すこしづつ息のはやさがずれてゐて合はさつた手のおもさかんじる

河野美砂子(こうのみさこ)『無言歌』(2004年)

 

あなたとわたし。二人の世界。官能的な歌だ。息ぐるしいほどの生々しさを感じる。二人はいまどういう状態にあるのか。息のはやさを感知できるのは、至近距離にいるからだ。並んですわっている、寄りそって歩いている、抱き合ったまま立っている、ベッドの上にいる。読んだとたん、考えるより先に浮かぶイメージは、読者によりさまざまだろう。正解はない。こんな場面かもしれない、あんな場面かもしれない、と感想をのべあって楽しめる歌だ。

 

〈すこしづつ/息のはやさが/ずれてゐて/合はさつた手の/おもさかんじる〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。これ以上漢字を減らしたら、趣味性が勝る表記になってしまう、という限界ぎりぎりのところまで、漢字を削っている。

 

すこしづつ息のはやさがずれてゐて合はさつた手のおもさかんじる  (原作)

すこしづついきのはやさがずれてゐてあはさつた手のおもさかんじる (改作1)

すこしづついきのはやさがずれてゐてあはさつたてのおもさかんじる (改作2)

 

改作1、2の表記でゆく手もある。歌としておかしくない。だが臨場感あふれる内容と相まって、いかにも「ねらいました」という印象になる。歌集には、漢字使用を抑えた〈まなぶたにゆびさきあつるしまらくをとくとくと息づけるがんきう〉〈そののちをわれはいくたび眠りしかびんせんのうすさあとかたもなく〉があるが、「すこしづつ」の歌に関して、作者はこういう表記をよしとしなかった。結句は「おもさかんじる」と話し言葉ふうにゆく。「おもさをかんず」とはしない。

 

少しずつ二人の息のはやさがずれていて、〈わたし〉の手に合わさったあなたの手の重さを感じる、と歌はいう。初句からすんなり読めてしまうが、じつはことばにねじれがある。「すこしづつ息のはやさがずれてゐて」の、「すこしづつ」は、「ずれる」に係る。これはふつう、多数の主体に対する表現だろう。たとえば、山小屋で雑魚寝の最中に目覚めた人が「みんな少しずつ寝息がずれているな」と感じる場合などだ。そのため、上句を読んだ者は、無意識のうちに数人の人間ないし動物を思う。ところが、下句に来ると「合はさつた手のおもさかんじる」と、登場人物は二人であることがわかる。意識の表面にのぼらない領域で、読み手のなかに違和感が生じるだろう。

 

もしも上句の末尾が「すこしづつ息のはやさがずれてきて」と「きて」だったら、「すこしづつ」は、「ずれて」ではなく「きて」に係る。「少しずつ寒くなってきて」などと同じだ。この言い方ならば、二つのものの息がずれていることを、あらかじめ予想できる。だが、歌の生々しさは消えてしまう。複数の登場人物を予想させる上句から、下句で二人の世界が展開するときの、かすかな違和感、ことばのねじれが、隠し味となって歌に切迫感を呼びこむのである。

 

ねじれという観点から、河野の一首は、佐藤佐太郎〈冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ〉(『形影』 *「青岸渡寺」に「せいがんとじ」のルビ)に通じるだろう。佐太郎作は、「いでて」「みゆ」のつながりにねじれがある。

 

河野と書いて「こうの」と読む河野愛子は、テクニシャンとして知られたが、同じく「こうの」と読む河野美砂子もまた指折りのテクニシャンである。『無言歌』に続く、二冊目の歌集が待たれる作者だ。

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