紙ひとえ思いひとえにゆきちがいたり 矢車のめぐる からから

平井弘『前線』(1976年)

 

一首の歌との出会いかたには、運不運がつきまとう。あなたがきのう読んだ歌集の、気にもとめず過ぎた一首は、もしそれが美しい絵画作品に添えられていたら、心に残る一首になったかもしれない。昼下がりの眠い頭で読みすごした、歌集の中の一首は、頭がさわやかな早朝に読んでいたら、愛唱歌のリストに加わったかもしれない。

 

冒頭に掲げた一首は、私にとって最も幸運な出会いかたをした歌の一つだ。出会いの場は、朝日新聞の日曜版である。1995年から1997年にかけて、「俵万智と読む恋の歌100首」が連載されていた。まだ短歌を始める前のことだ。『サラダ記念日』が苦手な私も、このコラムは楽しみにしていた。俵万智は、一般読者に歌を語ることばを持っている。毎回、安野光雅の切り絵がついているのも魅力だった。歌のことばが切り絵、というより切り言葉となり、絵と組み合わされている。二年間の連載を通じて、いちばん印象に残ったのが平井作品だった。

 

〈紙ひとえ/思いひとえに/ゆきちがい/たり 矢車の/めぐる からから〉と5・7・5・8・7・音に切って、一首三十二音。「紙ひとえ」は「紙一重」、「思いひとえに」は「思い偏に」だ。「ひとえ」と仮名に開いて意味を重ねる。紙一枚のように、そしてひたすらに、二人の思いはゆきちがってしまった。矢車が、からからと回っている。

 

恋の歌として差し出されれば、そう読むが、どのようにも取れる作りだ。友人同士のゆきちがい、親子のゆきちがい、職場でのゆきちがい。ゆきちがいの中身を、歌は語らない。矢車をからからと回すだけ。「からから」で想像を広げてくれという。このそっけなさが、よかった。情念どろどろではない。うたいあげない。

 

一字開けを気前よく二回使っているのも、好ましく感じられた。短歌なのに、なぜ五七五七七のリズムではないのか不思議だったが、その「短歌らしくなさ」もよかった。「ゆきちがい/たり」に句跨り、「たり 矢車の」に句割れがあると知ったのは、ずっと後のことだ。俵万智は、一般紙で歌の技法を解説するような野暮はしない。

 

さて、新聞連載から五、六年後、短歌初心者となった私は現代歌人文庫『平井弘歌集』(国文社)を読んだのだが、いま改めてこの一首のあるページを開き、目を疑った。いいと思う歌につける鉛筆の印が、この歌についていないのだ。印があるのは、次に置かれた〈みずからをひき下ろせなき栗の木の高みいけない子ね いつまでも〉である。切り絵つきの一首独立で出会ったときは「いいなあ」と立ちどまった歌を、文庫版の歌集で対面したときは素通りしてしまう。
これはいったい、どういうことだろうか。

 

なお、連載は、俵万智『あなたと読む恋の歌百首』(朝日文庫)、安野光雅『安野光雅きりえ百首』(日本放送協会出版)の二冊にまとめられている。

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