新しき瞬間がありネオンサイン必ず消えてまた灯るとき

初井しづ枝『藍の紋』(1956年)

 

初井しづ枝は、1900年の今日10月29日に生まれ、1976年2月15日に75歳で死去した。

 

「新しき瞬間があり」と、いきなり二句切れで断定する。、ネオンサインの話だ。ネオン管灯を曲げて文字や図形を作り、看板として使うネオンサイン。ある種のネオンは、光り方が変化する。赤の部分が灯り、黄の部分が灯り、青の部分が灯る。そのうち、ぱっと消えて一瞬暗くなるが、すぐにまた光りだす。最初から順を追って、赤が灯り、黄が灯り、青が灯る。歌は、そこを捉えた。

 

〈新しき/瞬間があり/ネオンサイン/必ず消えて/また灯るとき〉と5・7・6・7・7音に切って、一首三十二音。二句「瞬間があり」は「瞬間のあり」とする手もあるが、作者はそうしない。所有格にも取れる「の」は却下し、「が」を使って主語を明確にする。

 

「必ず消えて」の「必ず」が働いている。さりげなく置かれたようでいて、なかなか出てこない一語だろう。凡手はこういうとき、「最後に」「見てをれば」「何度も」などといってしまいがちだ。「また灯る」ネオンサインは、その前に「必ず」消えるのである。

 

次々に色を変えつつ光り、一瞬消えたのちにまた光りだすものは、ネオンサインに限らない。私は、昔自宅のベランダに飾っていたクリスマス・イルミネーションを思った。赤青黄とりまぜて数十のライトが三十秒ほど、ちかちか点滅したり、一方向に流れるように光ったりする。そこにはストーリーのようなものがある。イントロがあり、展開があり、クライマックスがある。次はどう光るのか、とつい見つづけてしまう。そして、ぱっと光が消え、闇に放りだされたとき、イルミネーションに感情移入している自分に気づくのだ。でも、闇はほんの一瞬で、すぐにまた新しい光のストーリーが始まる。

イントロ、展開、クライマックス、一瞬の闇。
イントロ、展開、クライマックス、一瞬の闇。
イントロ、展開、クライマックス、一瞬の闇。
イントロ、展開、クライマックス、一瞬の闇。
イントロ、展開、クライマックス、一瞬の闇。
イントロ、展開、クライマックス、一瞬の闇。

果てがない。見ているうちに、息苦しくなってくる。スタートして、紆余曲折を経て、ようやく上がりまで来たのに、また最初からやりなおさなければならない。すべては一瞬で無にもどってしまう。佐野洋子著『百万回生きた猫』を思う。何度死んでも、そのたびに生き返ってしまう猫。輪廻地獄だ。百万回生き返った猫は、最後の生で人を愛することを知ると、死んでももう生き返らなかった。満たされた者は永久に死ぬべきなのだ。

 

最後に死が約束されているから、人は安らかに生きられる。終わりのない死と再生には救いがない。「新しい瞬間があり」とさわやかに始まる一首は、読み手の思いをそんなところへ運んでくれるのである。

 

初井しづ枝は、仕事の歌、感覚的な歌など、幅広い題材を確かな技量で描いた。作品は、いま読んでも古びたところがない。もっと読まれていい作者だろう。『藍の紋』にはこんな歌がある。

 

「初井さん」と優しく呼びかくるは相手方の弁護士にて我を不利に導く

スターリンの遺骸は花に飾られて親しき常の人のごとしも

支払ひの金を数ふる一つ所作をあくがるるごと児が近く寄る

落ちてゐる鼓を雛に持たせては長きしづけさにゐる思ひせり

夏の夜の畳這ひくる北の風手を休むれば手にも触れつつ

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