永田 淳『1/125秒』(2008年)
私たちは生きている。生物として、人として。個体や種族の維持。それは前者に関わること。労働や文化。それは後者に関わること。意識することはほとんどないが、私たちの生活はこうした多様な意味から組み立てられている。
私たちは長く、家族を基本に生活を営んできた。確かに変わりつつある。しかし、永田淳はそれを大切にしているのだと思う。一冊を読み、そのことを思う。
子を寝かし降りくるあなたが日々伝う火星の赤さ今日藤村忌
風邪の子のために買われし苺なり深夜の冷蔵庫開ければ匂う
こうやって子供を好きになってゆくのだろう青に変わるまでの信号
洛北高校前中央分離帯にヒルガオ咲くを知らせず過ぎき
薄雲に触るることなく鳶三羽旋回しおり言葉は淫ら
消えてしまった言葉のようにだうだうと川水ゆけり鵜の骸乗せ
死してなお閉じざる眼の上にさえ秋あたたかき庭土の嵩
午睡より醒めし身体にゆっくりと初夏の三時が近づいてくる
たとうれば厩でまぐわう女男のごと川辺の樟は太くなりゆく
セカンドがベースカバーに入るごと夏は秋へとなだれてゆけり
永田は、穏やかに受け止めていく。「ああ取り返しのつかぬことをしたという思いもよけれ列車に揺られつ」。ときには、こんなこともある。それも含め、穏やかに受け止めていく。しかし、いわゆる定型の作品だけを紡いでいるわけではない。字余りや字足らずのフレーズは、〈私〉が「いま・ここ」で選んだ自然体のことばなのだろう。そして、ときに見せるダイナミックな比喩も。
アトリ科の鳥とのみしか分からぬが柿の枝より移りてゆけり
アトリ科は、スズメ目の科。アトリ、ヒワ、イスカ、イカル、ウソなど、多くの種があるようだ。いずれも色のきれいな鳥だが、詳しくないものにとって、種を識別するのはなかなか難しい。
「アトリ科の鳥とのみしか分からぬ」。〈私〉も詳しくはないのだろう。上句でまず、そんな〈私〉を提示する。「柿の枝より移りてゆけり」。下句では、アトリ科の鳥が柿の枝より移っていったことを提示する。
淡い。そんな一首だ。しかし、だからこそ印象的な一首でもある。
永田は、穏やかに受け止めていく。しかし、そこには確かに詩の核がある。