傾けむ国ある人ぞ妬ましく姫帝によ柑子差し上ぐ

紀野恵『短歌パラダイス』(小林恭二著 岩波新書 1997年)

*「姫帝」に「ひめみかど」、「柑子」に「かうじ」のルビ

 

『短歌パラダイス』は副題を「歌合 二十四番勝負」という。実際に行った歌合を実況中継するスタイルで、短歌の世界ってこんなに面白いんですよということを、一般の読書人に小林恭二が熟達の語り口で伝えてくれる一冊だ。3月26日の本欄に書いたとおり、私は2002年に穂村弘の新聞コラムを読んで「歌人」に出会ったのだが、その後すぐに『短歌はプロに訊け!』(穂村弘・東直子・沢田康彦共著)と、この『短歌パラダイス』(穂村が歌合に参加している)を入手熟読した。冒頭に掲げる一首は、当時の私にとって、歌合二十四番勝負の作品中もっとも印象深かった歌である。

 

〈傾けむ/国ある人ぞ/妬ましく/姫帝によ/柑子差し上ぐ〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。歌合の題は「ねたまし」だ。その美しさで国を傾けるほどの姫帝を妬ましく思いつつ、〈わたし〉は姫帝に蜜柑を差しあげる、ほどの意味だろう。歌合では、〈わたし〉の性別や、妬ましさの内実をめぐり、ユニークな読みが展開されるので、ぜひ岩波新書八十一ページ以降を参照されたい。

 

題詠作品を読むときは、題をいかに料理したかを検分することになるが、ここでは題を離れて読んでみたい。現代短歌に初めてふれた読者の心をつかんだのは、二つの点だった。一つ、時空を越えた物語世界の展開。「傾けむ国」「姫帝」「柑子」ということばは、楊貴妃の中国や奈良時代の日本など遠い場所へ、読み手を一気に連れさる。現代に作る短歌で、大昔のことを描いていいのか。新鮮な驚きだった。

 

二つ目の点は、古語の助詞のかっこよさだ。「国ある人ぞ」の「ぞ」と、「姫帝によ」の「よ」。この「ぞ」と「よ」にしびれた。いまの時代に書く作品の中で、こんな古語を堂々と使っていい場があるのなら、私だって使ってみたい。そう思った。この種の「ぞ」「よ」は、手紙やエッセイや評論に使おうものなら、悪いものでも食べたんですかと聞かれるのがオチだ。「よ」についてはその後、斎藤史〈我を生みしはこの鳥骸のごときものかさればよ生れしことに黙す〉(『渉りかゆかむ』 *「鳥骸」に「てうがい」、「生れし」の「生」に「あ」のルビ)にも出会った。短歌の中ではこころゆくまで使え、しかも誰にも文句をいわれない古語。

 

私の感じた短歌の面白さは、たとえていえばオペラの面白さだ。旧かなづかいという舞台衣装を着て、古語というふだんの地声とは違う声を出して、短歌という舞台で、時空を越えた世界の物語をうたう。

 

紀野恵は、歌合に上の歌のほか〈この度も除目沙汰無くほころびてあさぎざくらは裏庭に生ふ〉、〈台湾に北京訛り提げ来たる虎小姐と鴨の皮喰ふ〉(*「北京」に「ぺいちん」、「虎小姐」に「ふうしやおちえ」のルビ)も出しており、こちらも楽しい。

 

『短歌パラダイス』は、短歌に興味を持った人に、何はともあれまず勧めたい一冊だ。短歌の読み方がわかる。ここは比喩と取ればいいとか、ここは比喩というよりその通りのシュールな場面と取ればいいとか、百戦錬磨の小説家ならではの博識と筆はこびで、初心者の抱く疑問につぎつぎ答えてくれる。

 

小林恭二には、同書に先立ち、岩波新書『俳句という遊び』(1991年)、同『俳句という愉しみ』(1995年)があり、こちらは俳句のすぐれた道案内だ。短歌に出会う前、私はこの二冊を読み「俳句っておもしろい!」と思った。数年後に『短歌パラダイス』を読み「短歌っておもしろい!」と思い、このたびは思うだけでなく実作にも及んだわけだが、それは繰り返しになるが穂村弘のエッセイを読んだからである。ともあれ、作歌開始にあたり、私はパソコン上の短歌のファイルを「短歌パラダイス」と名づけた。「短歌」「短歌自作」などの名前をつけるより、よほど気持ちがはずむ。パラダイスで遊ぶのだ。Aからスタートしたファイルは、目下「短歌パラダイスC」に至る。

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