〈青とはなにか〉この問のため失ひし半身と思ふ空の深みに

山中智恵子『喝食天』(1988年)

ひとには一生をかけて、或いは、人生の一時期をかけて追い求めるものがあり、そのために失うものもある。
その意味でこの歌は、ひとが生きることの普遍性にふれる一首である。
では、主人公が問いつづけた青とはなんだろう。

一首の冒頭の一字と結句をつなげると、青空の深みに、となる。
空の深みとは、青空の底にある地上のことなのか、青空の向こうの天上のことなのか。
まるで無重力のように、地上と天上をつらぬく澄明な青の世界が一首にはひらけている。
主人公の問いつづけるものは、その澄明な青とひびきあうものだ。
美とはなにか、歌とはなにか、そんなふうに言ってみてもいい。
しかし、つきつめてゆけばその問いは、問うことへの問いにいきつくのではないか。
まるで憑かれたように、自分が生涯をかけて問いつづけているのは、いったい何なのだろう、という問いにである。

作者は歌人であると同時に、その生涯をかけて斎宮について貴重な研究を遺した。
斎宮とは天皇の名代として伊勢神宮に奉仕した未婚の皇女のことで、斎王ともいう。
天皇即位のたびに卜定され、天皇が没するか譲位するまでを伊勢の地で過ごした。
斎宮の伊勢へ群行を描く記述には、青峠、青谷の地名があり、青とは斎宮とかかわりのふかい色でもある。
青とはなにか、という問いの背後には、斎宮研究にささげた自身の生涯があり、失った半身には、都をはなれた土地で生涯を過ごした斎宮のかなしみがかさねられている。
しかし、そうしたことを一首の背後におきながらも、問うことへの問い、という問いの根源性を受けとめなくては、一首のひらく澄明な青を、読者は視ることができないだろう。

作者はこの歌の数年前に最愛の伴侶を亡くした。
生涯を通して存分に愛しあった伴侶だったが、ふたりには子供がなかった。
意識してもたなかった、と思わせるような歌が、若い頃の歌集にみられる。
失った半身とは、歌と研究に生涯を捧げなければ、あったかも知れない別の人生、なのだと思う。
同じ歌集には、斎宮のことを詠んだこんな歌がある。

  累々と子を生(な)すものの頂に斎王立ちて子のなきはすずし

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