太宰治『桜桃』(1948年)
本歌取りにおける、短歌と俳句を考えてみたい。
冒頭に掲げるのは太宰治(1909-1948)『桜桃』の一節だ。試みに五つの句に分ければ、〈子供より/親が大事、と/思ひたい。/子供よりも、その親の/はうが弱いのだ〉と5・7・5・11・8音に切って三十六音となる。一首の歌に近い長さだが、むろん短歌ではない。ともあれ、これが有名なフレーズらしいことを、太宰が苦手な私は、短歌や俳句にふれるようになってから知った。さまざまな本歌取り作品が作られているのだ。
国家よりワタクシ大事さくらんぼ 摂津幸彦『陸々集』(1992年)
最初に出会ったのは、この一句である。俳句も短歌も知らない頃に読んだ『俳句という愉しみ』(小林恭二著 岩波新書 1995年)の中で、摂津幸彦(1947-1996)の自選十句の一つとして挙げられていた。国家より私が大事。それはそうだろう、と思った。「国家」という固い語から、徴兵拒否などを連想する。硬派な内容と、可愛らしい「さくらんぼ」の組み合わせがキュートだ。そう思った。これが太宰のことばであり、「さくらんぼ」が「桜桃」から来るとは、この時はまだ知らない。そして、この句のことは忘れた。
数年後、つぎの一首に出会った。
<世界より私が大事> 簡潔にただ率直に本音を言えば
道浦母都子『夕駅』(1997年)
作歌を始めて一年を過ぎた頃に読んだ『現代短歌の鑑賞101』(小高賢編 新書館 1999年)の中に、この歌が収録されていた。一読して、「国家よりワタクシ大事」を思いだした。本棚から『俳句という愉しみ』を引っ張りだしてきて、摂津作品と読みくらべた。
国家よりワタクシ大事さくらんぼ
<世界より私が大事> 簡潔にただ率直に本音を言えば
俳句の方が断然いいと思った。「国家よりワタクシ大事」。いうべきことはこれであり、これに尽きる。余った5音に、季語を入れて終わり。対して短歌は、19音も余ったばかりに、余計なことをいっている。「簡潔にただ率直に本音を言えば」と、くどくど言い訳する。そんなことをいわなくても、<世界より私が大事>が、簡潔で率直な本音そのものではないか。端的な俳句。冗長な短歌。短歌って情けないなあと、がっがりした。そして、がっかりする自分におどろいた。
私は短歌の側からものを考えている。
それまで、自分は試しに短歌を作りだしたけれど、スタンスはあくまで俳句からも短歌からも等距離、のつもりだった。なのに、こうして短歌に肩入れしている。
<世界より私が大事>の歌は、私にとって、自分が短歌の人になったことを気づかせてくれる記念すべき一首となったのである。
〈<世界より/私が大事> 簡潔に/ただ率直に/本音を言えば〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。あらためていまこの歌を見ても、感想は初めて読んだときと変わらない。短歌としては、三句以下で、上二句とつかず離れずの景をさしだすのが、一つの方法だろう。摂津作品の「さくらんぼ」に当たる部分を、19音にひきのばす。
「子供より親が大事」は、名コピーライター太宰の会心作にして遺言のようなフレーズだ。『桜桃』執筆後ほどなく、この人は自殺に成功した。そのせいかどうかは不明だが、このフレーズは、実作者の本歌取り制作欲を刺激してやまないようだ。どう料理するかが、作者の腕の見せどころとなる。短歌だってなかなかやるかもしれない。二つほど作品を紹介しよう。摂津作品と手合せしたらどうなるか、判者はあなただ。
「子供より親が大事、と思ひたい」さう、子機よりも親機が大事
小池光『時のめぐりに』(2004年)
*詞書 太宰治『桜桃』、**「子機」に「こき」、「親機」に「おやき」のルビ
地球より日本が大事、日本よりわが身が大事、爪の先まで
高野公彦「コスモス」(2012年12月号)
原発より子どもが大事、という声に声合わせつつむすめを思う
吉川宏志『燕麦』(2012年)