行つてはだめよと言へばいつせいにふりかへるしづかな老人しづかな子供

米川千嘉子『一葉の井戸』(2001年)

 

謎かけのような歌だ。「行つてはだめよ」という〈わたし〉は何者か。「しづかな老人しづかな子供」は誰で、どこへ行こうとしているのか。なぜ「そこ」へ行ってはいけないのか。短歌は謎ときではない。でも謎のない短歌はつまらない。

 

あるいはこれは、世界の終わりの場面かもしれない。核爆弾による放射能汚染後の世界。映画「渚にて」を思う。近未来のあるとき、北半球の人間はすでに死に絶え、南半球の人類も滅亡にむかっている。人類全滅は避けえず、その時が来るのは時間の問題だ。いま老人たちは、子供たちを連れて安らかに死ねる場所へ行こうとしている。薬物をのんで死ぬための場所へ。「行ってはだめよ」と〈わたし〉は叫ぶ。かれらは足をとめて、ふりかえる。でもまた歩きだす。そして、行ってしまう。

 

〈行つてはだめよと/言へばいつせいに/ふりかへる/しづかな老人/しづかな子供〉と8・8・5・8・7音に切って、一首三十六音。ただならぬ字余りが、場面のただならさを伝える。初句二句は、「 」を使って〈「行つてはだめよ」言へばそろつて〉とでもすれば、7・7音に収まるが、作者はそうしない。あえて非短歌的な8・8音を置く。そのだらだら感が、不穏な匂いをかもしだす。何か尋常でないことが起きているらしいのに、老人も子供もきわめて「しづか」なのは、すでに一切をあきらめているからか。

 

あるいはこれは、神隠しに合う前の老人と子供かもしれない。「そこ」へ行くともう戻って来られないことを彼らは知っている。でも、かれらは行く。自らの意志で行くのだ。どこへ? たぶん山の奥深くへ。

 

「行つてはだめよと」の、女言葉「よ」が効いている。「行つてはだめと」にすれば一音減り定型に近づくが、おとなしい。「よ」を挿入することで、残響がオオオーとのびて、通奏低音のように一首に響くのである。

 

「へばいつせいにふりかへるしづかな」の、平仮名を連ねた部分も、視覚的に不穏感を伝える。初句から仮名をひらき〈いつてはだめよといへばいつせいにふりかへるしづかな〉といく手もあるが、「行く」「言う」は漢字で区別しないと分かりづらい。作者によっては、「行く」だけを漢字にするだろう。どこまで仮名にひらくかは、作者の悩みの種であり、歌を作る楽しみの種でもある。「行く」との対比で「言う」も漢字にしようと作者は決めた。読む人にもわかりやすい。読者に対する米川の律義さを感じる。

 

歌は「いつせいにふりかへる」とだけいい、その後にどうなったかはいわない。受け手に想像の余地を残す。もしかしたら、「行つてはだめよ」と叫んだ〈わたし〉も、ほどなく行ってしまうかもしれない。そして、誰もいなくなるのだ。風だけがわたってゆく世界。

 

さて、歌集の中に置いて一首を読むと、まったく違う場面が立ちあがってくる。だが、ネタバレになることはいわずにおこう。いや、短歌は推理小説や映画ではないので、ネタバレというものはない。連作の中での読みがその歌の正解というわけではない。ともあれ、前後の歌を伴って読むと、この一首からどんな場面がひらけるかは歌集をひらいてのお楽しみ、なのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です