「好きだつた」と聞きし小説を夜半に読むひとつまなざしをわが内に置き

横山未来子『水をひらく手』(2003年)

同じ夢をみたい。
大切におもうひと、愛するひとができたら、そうかんがえるようになる。
もちろんひとはまったく重なり合うことはできないし、感性や表現はそれぞれだけれど、
せめて同じ方向をみていたい。

会話のなかで、そのひとが愛読していた本の名を耳にした。
読んだ本の名を話す相手は、おもえばわりと限られている。気を許し、自分を理解してくれるとおもうひとにだけ、こっそり教えたくなるのだ。
それは、自分の思想やかくしておきたい内面を語ることにすこし似ている。

小説の名をどんなふうにきいたのかはべつとして、そのひとをわかりたくてその小説を読む。
自分が読みながら、そのひとが読んでいた姿、場所、そして「まなざし」を想像している。
あのひとは、どんなシーンが好きだったのだろう…。
ときに共感し、ときに驚きながら小説を読んでいる姿は純粋そのもの。

やがて、そのひとの「まなざし」が自分のなかに存在している。

「「好きだつた」と聞きし小説を夜半に読むひとつまなざしをわが内に置き」への2件のフィードバック

  1. このコーナーを知人に紹介してもらい、初めて読ませてもらいました。この歌は上句が無季の俳句的ですね。下句は感覚的な理屈のようで慣用表現に近いところがあるとおもいます。そういうこと自体が短歌なのかもしれません。上句の内容だけで1首にするか下句にほとんど意味をもたせないかしたら、ほとんど短歌になりませんかね。「消しすぎ」と言われることが多いのでまた、消しすぎかもしれません。

  2. 山寺修象さま
    コメントありがとうございます。
    短歌は場面や言葉をどれだけどのように省略するかにかなりのちからがかかりますね。たしかに。

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