時を消すために相撲を見つつをりときどき光る行司の扇

佐藤佐太郎『黄月』(1988年)

 

佐藤佐太郎の『黄月』は佐太郎の最後の歌集であり、死後に志満夫人と秋葉四郎によって編まれた。佐太郎が死に急傾斜していった四年間を詠んだ歌集であるが、不思議とゆったりとした寂しい時間が流れている印象がある。

 

以前にも私は、老いを詠んだ歌が好きだということを書いたけれど、佐太郎や宮柊二の歌を読んで特に好きになったように思う。とは言っても、短歌を始めたころは、佐太郎と宮柊二の歌の違いもなかなか分からなかった。同時期に生きた歌人であるからよく二人の特集が雑誌に載っていたが、その時は身近に感じられず歌を学ぶだけで終わっていた。その後、全歌集などでそれぞれの人生を知ることにより少しづついろいろな魅力が見えてきたのである。

 

さてこの一首だが上の句の比喩が魅力的である。手持ち無沙汰な時間があって、ふっとテレビをつけたのだろう。この頃の佐太郎の歌を読むと日課であった脚の訓練のための散歩もできなくなり、家にいることが多くなっている。「運動のために玄関に転ぶなどいよいよ老いて能力のなし」といった自身を嘆いたような歌がある。「時を消すために」の表現、時間は消えるものではないけれど、無為の時間のなかにいる自分に対する苛立ちのようなものを感じる表現だ。

 

そして下句では力士の取り組みのことは詠まず、行司がかざす扇に視点を移している。佐太郎の歌のモチーフに「光」というものがよく出てくるが、ここにもそれがある。行司がうごかすたびに光を返す扇は、ぼんやりとテレビ画面を眺めている作者の気持ちをチラッと動かすような一瞬を連れてきたのではないだろうか。観察眼の鋭い佐太郎であるから、ひとつの実景としてだけに詠まれているということも考えられる。