花々が少しづつ季節をまちがへて咲き散り咲き散り濃い闇が来る

馬場あき子『あかゑあをゑ』(2013年)

 

『あかゑあをゑ』は、馬場あき子二十四冊目の歌集である。2011年3月11日の大震災に遭遇し、被災地の閖上を訪問する一連で終わる歌集であるが、ここに揚げたのは、それ以前、歌集前半の歌である。

馬場の歌は、この一首にもあきらかなように文語・口語の混合文体である。馬場が歌に口語をまじえるようになってから、しばらく経つ。最初は馬場の歌にまでと驚いたものだが、歌いくちが自在に、自由になっていることは歌集を読めば明らかだ。しかし、一首を支えているのは文語文体であることは、次のような歌に見て取れる。

 

晩年のわれをみてゐるわれのゐてしづかに桃の枝しづくする

二千トンの橋梁開く中軸にヤジロベヱといふ原理をりたり

 

旧かなづかいであることもあるが、文語的な骨格が歌を支えている。一首目は巻頭歌、「晩年のわれ」を客観的に見る私の自覚、それは老いの自認に他ならないが、しかしそれは衰微ではない。桃の枝がしづくするように静かで芳醇な老い。この歌集の主題を暗示する。二首目は、今は開くことない可動橋、東京の築地から月島へ渡る勝鬨橋を歌う。

今日のこの歌は、昨今の異常気象のせいか花が季節を早合点して少しづつ狂いはじめている。ソメイヨシノが秋に咲くというようなことまであった。そこまでの狂い咲きではなくとも、季節が早まっているという感覚は多くの人にある。結句の「濃い闇」は、この世界の未来を暗示する。

たまたまこの数日、ダン・ブラウンの新作『インフェルノ』を読んでいた。ダンテの『神曲』地獄篇をモチーフにした人類の滅亡を示唆した、きわめて通俗的なサスペンスながら、人口の急増に人類を支えきれなくなる未来予想は存外見当外れとも言えそうにない。気象異常も、決して人類の未来に無縁ではない。花が季節を少しづつ違えながら人類は「濃い闇」に向かっているのではないか。

 

ぼうたんは大壺に咲きしづまりぬ卑弥呼坐(いま)すがごとしはつなつ

きみは赤絵の茶碗にしろき朝粥をわれは奈良絵の茶碗の茶漬

 

こうした華やいだ歌もある。