夫はたぶん知らないだろう抱きかかえるように拭きます便器というは

前田康子『黄あやめの頃』(2011年)

 

前田康子さんの第四歌集になる『黄あやめの頃』は、家族の日常をうたって素敵な歌集である。明るい家庭が目に浮かぶ。

日常のあらゆる場面があれこれうたわれるのだが、私が注目したのは便器の歌だ。この一首の他にも、こんな作品が収められている。

 

洗剤は置かれていない学校の小さき便器水かけこする

男子便所女子便所と洗いたり低き鏡に身体は映る

 

子どもが通う学校のトイレを清掃するボランティアであろうか。PTA活動の一環と言うことか。ともかく便器を洗う作者が、その小ささに驚いているから小学校のトイレであろう。鏡の位置も大人からすれば低い。

今までにこのようなトイレをうたった短歌があっただろうか。私は知らない。作者にはトイレ愛があるのかもしれない(失礼)。

今日のこの一首は、自宅のトイレだ。夫が仕事に、子どもが学校に出かけた後に家事がはじまる。そして今日はトイレ掃除、便器を拭き清める。その際、洋式便器は、抱きかかえるようにして冷たい陶製の便器を磨く。まさに便器を抱いている。夫は妻のその姿を知らない。

そう夫は、たいていトイレを掃除する妻の姿を知らない。私も知らなかった。しかし、今私がこの歌を読んで共感するのは、この数年この仕事が私の担当でもあるからだ。

八年前に悪性リンパ腫を告げられ、入院、そして家での療養、その後寛解に至るものの体調は以前に戻ることなく、結局仕事を辞めてほとんど家にいる状態が続いている。八十代の母が元気でいるものの、妻は働いている。おのずから家事のいくつかも私の担当に移ってくる。その一つがトイレの清掃。

実は、私はこの作業が気に入っている。汚物に汚れがちな便壺やシャワー部分の清掃は意外とむずかしいものの、汚れが落ちてきれいになっていくのは快感でもあり、とりわけ便器の肌を磨くのは、幼い子どもを清潔に磨き上げるような感覚がある。陶器の冷たい肌を抱きかかえるように拭いていくのだ。

これ以上はやめておこう。変態のように思われてしまうといけない。夫には知らないトイレ愛だが、これは夫が知ってしまうと盗られてしまうかもしれませんよ。私は盗ってしまいました。